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「幸せにしたい」20210711

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「幸せにしたい」20210711

聖書 マルコ福音書 二十八節〜三十一節

 

 週に一度の説教を作るのはなかなか骨が折れます。慣れていても、結果的に毎週十時間以上はコンピュータに文字を打ち込んでいます。

 ぼくは時間をけっこう自由に使っている方ですけれども、それでも縛られているものです。

 人間というものは、自分を自分でコントロールできないような、けっこう窮屈な社会生活をしています。八時間寝るのが健康のために一番いいという講義を聞きましたけれども、それがなかなかできないのが現代社会です。

 せめて自分で出来得ること、すなわち自分の歩く道を自分で選ぶことくらいはしたいものです。イエスは自分の生き方を自分で決めた人だったので、ぼくはイエスの福音に耳を傾けるようになって、自分の生活を自分で決めることができるようになりました

 自分にはうまくいかないことが、他のひとにはうまくいっているように思える時があなたにもあるでしょう。けれども、他人と比較することをやめて、自分で自分をコントロールすることができるようになれば、全ての評価乗り越えて、自分が満足できる生活に入ることができます。自分をコントロールして、自分の生活に満足できるようになる道を示してくださったのがイエスです。ですから、多くの人のニーズに応え、多くの人に影響を与えて来たのがイエスです。だからこそ、今もイエス(イエス・キリスト)は世界一有名な呼び名なのだと言えます。

 

【名が廃(すた)れない訳】

 ところで、現代人で一番有名なのは習近平さんで国民の数一番多いからです。中国の人口は日本の十倍以上です沢山の民衆を従わせるためには、多くの事業を展開し、多くの人を抹殺してきたでしょう。そして有名になりましたけれども、二千年後に彼の名を知っている人はどれだけいるでしょうか、期待薄です

 大ピラミッドを建てた王様(ファラオ)たち偉大な事業家でした。けれども、今では誰が建てたピラミッドか判らないものもあるように、多くの人に影響を与えた人も忘れられていくものです。一方、キリストにされたイエスは、現在もなお世界中で最も名の知れた人です。

 ローマ占領下であったイスラエルで、十二人の弟子と共に、長く見積もっても数年間だけ自分付いた考えを、歩きながら教えたために三十歳そこそこで十字架につけられて殺された男が、なぜ世界一有名なんでしょう。

 それはイエスが多くの人のニーズを満足させからです。人が幸せと思える生活をおくるための秘訣をイエスは教えたからです。多くの人に影響を与え、それが今も続いているからです。

 

【信念は幸せにすること】

 いまさら口にするのも烏滸(おこ)がましいのですが、ぼくはあなたを幸せにしたいという信念でイエスの福音を伝えています。

 あたりまえだと思い込まされた考えの中で幸せだと思えない人に、違う考え方を伝えることに価値があると信じているからです。

 暴力など使わずに、ぼくたちが世界を変える手段があります。それは、簡単にまとめられ、理解しやすくて、馴染みやすいイエスの言葉です。そのためにイエスの福音生まれました。だからぼくはイエスの言葉を伝えています。

 イエスがおっしゃった言葉と言われるものの中から、本当にイエス自身が言ったであろうと思われる言葉を、ぼくは入念に読み取ることを心がけてきました。そしてイエスの気持ちがわかって来たんです。そしてイエスの真正の言葉を聴いて理解して行く内に、それまでに教え込まれた多くの思い込みを取り払うことができるようになりました。

 そんなわけで伝統的な思い込みによって何かに縛り付けられているぼくらの心を解放してくれるイエスの言葉を信じています。

 判らないことを納得できないままで信じ込むのを止めなさい、とぼくは言い続けてきました。けれども、何もかも信じるなと言っているんじゃありません。ぼくイエスの言葉を信じています。イエスの生き方を信じています。ぼくが信じ得るイエスの言葉聴いてください

 

【イエスは何を伝えたかったか】

 自分で気がついた福音を、イエス語り出した理由は、人が刷り込まれている伝統的な概念から自由にして、多くの人が喜べる住み良い社会にしたかったからです。

 もともとイエスは、ユダヤ教国家の厳しい戒律ので育ちました。

 修行僧のようなバプテストヨハネの宣教を聞いて、彼からバプテスマ(いわゆる洗礼)を授けてもらい、の元で荒野の修行をしたほどに、イエスは生真面目青年でしたから、刷り込まれたユダヤ教の教義に凝り固まっていたことでしょう。しかし、真面目に取り組めば取り組むほど、煩悩から解放されるどころか、返って自分の中から湧き上がってくる欲望渦(うず)に巻き込まれるものです。

 王族の家に育ったお釈迦様と違って、イエスは貧しい庶民でした。たとえそうだとしても、家には少しの生活必需品があったでしょう。イエスがヨハネの元に行ったときには、少ない持ち物も家族関係も捨てて、体一つで修行僧の群れに加わったはずです。

 資産家の男に、持ち物を売り払って、貧しい人に施して、体一つでわたしに着いて来なさい、とおっしゃったのは、イエス自身も持っていた(しがらみ)を全部手放して身体一つになる道を歩んできた経験があったからです。

 しかし荒野での修行行き詰まったイエスは、それまでに教え込まれて来た伝統的宗教の教義を全部捨てて、自分の本心に気づいたのですから、その喜びを他の人にも味わってもらいたい一心で語り出したに違いありません。

 

【すべてを捨てた?】

 永遠の命よりも現生の豊かな生活を選んでイエスの元を去って行く資産家を見送った弟子たちを代表して、ペトロが「さあ見てください。ぼくたちはなにもかも捨てて、あなたに従ってまいりました「これで神の国に入ること、永遠の命を受けることができますよね」と言わんばかりに誇らしげに言いました。

 すると、弟子たちが喜びそうな言葉がイエスから返って来たように書かれています。

 イエスに出会った頃の弟子たちに家族関係以外に手放すなかったはずですから、全財産を捨てて来ましたと言ってもさほどの苦もなく捨てられたでしょう。それでいながら弟子たちは、「やったあっ、これで安心」「これで永遠の命もこっちのもんだ」と思ったでしょう

 そんな弟子たちにイエスは「君たちのように全てを捨てた者は、この迫害の時期であっても、手放した事柄の百倍を受け、来るべき世では、もれなく永遠の命を受ける」とおっしゃったようにかかれております。ただし「わたしのため、福音のために」という条件が付けられています。こんな言い回しは教会の常套句(じょうとうく・決まり文句)ですからイエスではなく、後の教会が出した条件だと判ります。

 

【詐欺の手口】

 それにしても、迫害の時代さえ、手放した物の百倍受け、などということはあり得ません。まるで一時期の気狂いじみた暗号通貨の高騰りも大きい見返り言い切っているんです。よくもこれほどの大洞(おおぼら)を吹くなあと感じるのが当たり前の感覚です。

 しかもですよ、投資した分の百倍をこの世で受けることができるだけじゃなくて、来たる世では、永遠の命を受けることができるのだそうですから詐欺の匂いがぷんぷんします

 もしもこれが真実ならば、これほど有利な投資は他にありませんしかし誰も飛びつきません。なぜなら、話が旨過ぎ(うますぎ・ばかばかしすぎ)誰も信じることができないからです。

 こんな案件でも信じ込もうとする人いるはずです。なぜなら、信じている人にとっては、誤りが書かれているはずのない聖書に書かれている言葉であり、しかもイエスがおっしゃった言葉として書き残されているからです。聖書が誤りなき神の言葉だと信じる人は、ここも真実だと言わねばならないでしょう。ここだけ信じないというわけにもいかない、とうろたえる人がいるかもしれません。

 先週言いましたように、信じるなら信じる、信じられないなら信じない。どちらでもいいけれどもはっきりしなさい、と言いたいです。

 どちらでもいいとは言いましたけれども、それにしてもすごく大袈裟(おおげさ)な詐欺師(さぎし)の言葉だと言うしかありません。ぼくだけじゃなくて多くの人が、おかしいと感じることができる詐欺師の言葉です。だから信者の多くも、文字通り信じてはいなのが現実だと思います。信じ受け入れることなんかできない言葉だと考えるのが人間の本音です。

 たとえ弟子たちが、当時、本当にイエスが語るこのような言葉を聞いていたと仮定しても、彼らも信じられなかったほどの大洞な内容です。

 ですから、こんな言葉をイエスが発したはすありません。せいぜい、後の教会大洞吹きの説教者が言った言葉に過ぎないと受け止めておけばいいと思います。とにかく、イエスの真正の言葉じゃないことは明らかだとぼくは考えます。

 

【弟子批判】

 前にも、イエスの弟ヤコブや使徒ペトロたちが信者である妻を連れていたことを紹介しましたように、パウロが手紙を書いた頃の弟子たちは家族行動を共にしていることから、ある程度の財力もあったように思います。

 そういう弟子たちの状況を批判するつもりで著者マルコが書いエピソードかもしれません。マルコの編集によれば、今日の物語のすぐ後に、イエスは自分が殺されることを弟子たちに伝えております。すなわちイエスは、命さえ差し出す用意があると伝えているのです。そうであるにもかかわらず、弟子のヤコブとヨハネが、イエスが天下を取ったときには右大臣と左大臣に任命してください、と願い出たエピソードまで追加しています。このように見て行くと、弟子たちは何も捨てていないように見えます。何も手放さないまま、立場も地位も名誉も財産も得ている弟子たちに対する批判の気持ちがマルコの編集の仕方に表れているのだとぼくには思えます。

 

【ぼくたちは】

 聖書の中には受け入れる必要などまったくない内容が含まれていることはもうお判りいただけたでしょう。イエスが語ったものとして聖書に書き込まれている言葉の全てがイエスの真正の言葉ではないということです。

 あなたやわたしを幸せにするためにイエスが語った言葉をぼくは吟味(ぎんみ)して大切にしていきます。イエスもぼくも詐欺師ではありませんから、永遠の命を保証しません。ただ現在のあなたを幸せにしたいという信念で、ぼくはイエスの言葉をお伝えしていきますから、これからも、どうぞご一緒くださるようお願いいたします

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