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「神抜きで生きる」20220130
「神抜きで生きる」20220130
聖書 マルコ 二章一節~十二節
昔はね「嘘(うそ)をついたら閻魔大王(えんまだいおう)に舌を抜かれるんだからね」という言葉をよく聞きました。けれども、このような脅(おど)しに負けたことはありません。(笑)
普段の生活でほとんど名前が出てこない閻魔様を突然引っ張り出してくる大人こそ嘘をついているに違いないと思ったからです。
今は、嘘(うそ)をついたら閻魔大王に舌を抜かれるということが嘘であるという証拠を握っております。先日も国会中継を見ていましたが、出鱈目なことを言ってる議員の誰も舌を抜かれた様子がありませんでした。有力な証拠です。
大人は適当に嘘をつきます。いやいや大人だけではなくて、子供も嘘をつきます。大脳新皮質の大きさが増すほど嘘をつくことが多くなるようです。赤ちゃんでも嘘泣きします。三歳児にもなると親を誤魔化そうとします。高齢者のお金を巻き上げる若者もいます。ペットでさえ、部屋を散らかしたのはぼくじゃない、と知らん顔する仕草を見せられた飼い主も多いことでしょう。実は、日常茶飯事の嘘の中でぼくたちは暮らしています。けれども、ぼくが一番許せないのは、宗教者が真面目な顔でつく嘘です。
【律法学者は言っていない】
嘘か本当か知りませんが、一歩も歩けない病人が、四人の男に四隅を吊ってもらって、ベッドに寝たままイエスの前に降ろされました。この病人に「あんたの罪は赦される」とイエスはおっしゃったのだそうです。天井から男が吊り下げられたという演出は面白いですが、それは問題じゃありません。「あんたの罪は赦される」とイエスがおっしゃった言葉が物議をよびました。
この物語では、かなり巧みな言い回しで、数人の律法学者が心の中で考えたことが紹介されております。冷静に読めば判りますように、「神おひとり以外に罪を赦せる者はいない」と律法学者たちは口に出していないんです。ということは、律法学者たちが本当にこのように考えたのかさえ判らないのです。そうであるにもかかわらず、話し言葉を示すカッコの中に入れて訳されておりますために、実際に律法学者がこのように語ったかのような錯覚に陥ったのはぼくだけではないでしょう。もちろん原文にカッコはありません。けれども、「罪を赦せるのは神だけだ」と律法学者が本当に語ったかのように読者が錯覚するほど巧みに描かれているのは事実です。しかも、多くの読者が「確かにそうだよなあと」思って、違和感なく読み過ごしてしまっていることにぼくは疑問を抱きました。
【宗教的な考えを植え付けられている】
「罪を赦せるのは神だけだ」という言葉に違和感を覚える人が少ないということは、宗教に詳しい人や熱心な宗教者であればなおさらのことですが、大なり小なり宗教的な意識を植え込まれているぼくたちが共通して持っている考え方だということです。
多くの人がこのような思想背景を持っていることを承知の上で、マルコはこの物語を書いたのだと思います。そうだとすれば、この物語に登場する数人の律法学者は、宗教的な考え方が植え付けられている一般庶民を代表する役割を担(にな)わされているのだとぼくは考えました。
すなわち、律法学者だけを槍玉に挙げているのではなくて、イエスの周りを取り囲んでいるすべての登場人物に向かってマルコは語りかけているのだと感じます。もちろん「罪を赦せるのは神だけだ」という言葉を聞いて、それはそうだよなあと納得してしまっているすべての読者をも代表しているのが数人の律法学者たちだとぼくは解釈しました。
人を罪に定めるのも許すのも神にしかできないという考えは、一般的な、常識になっているからこそ、その考えの代表者である律法学者の常識を、打ち壊すために、イエスは病人に対して「あんたの罪は赦される」と言ったのだ、とマルコは強調したのでしょう。
【イエスは神を冒涜していない】
神だけが可能な赦しを、イエスが成し得たのはイエスは神の子であったからだ、とクリスチャンは教えられました。しかし、この考えは後代の熱心な信者の思い込みです。当時のその他大勢にとってイエスは神を冒涜(ぼうとく)していると映っただけだったでしょう。
さて、そういう状況を踏まえた上で、イエスは決して神を冒涜していないという証拠を示して、ぼくはイエスを弁護しておきたいと思います。
もしも「神があなたの罪を赦してくださる」とイエスが言ったのであれば、越権行為ですから、神を冒涜したと言われてもしょうがありません。しかしイエスは「神はあなたの罪を赦してくださる」と言いませんでした。イエスは神を主語にして話していませんから、嘘をついたのでも神を冒涜したのでもありません。
【宗教者こそ神を冒涜している】
イエスの発言にまったく対立する形で「罪を赦すことができるのは神だけだ」という言葉があるのですが、冷静に考えてください。これを言っているのは、神の事など何も知り得ない「人」です。このように神を規定している人こそ神を冒涜していると言えるんじゃないでしょうか。
病気のために一歩も歩けないような男に、「あんたの罪は赦される」と言ったイエスに反発を感じた人が多かったのは、病気と不信仰が人々の心の中で深く関連づけられているからです。しかし、イエスはこれらの関連性を認めていません。冷静に考えてみれば判るとおり、健康と信仰は、関係ありません。成功や失敗も信仰と関係ありません。不幸な出来事を信仰と関連づけて教えるのは、自分に対して不誠実な人を痛い目に合わせるほど心の狭い人です。そんな人が、自分の思考パターンに合わせて、不信仰者を痛い目に合わせる神を作り出したのでしょう。
【神を主語にした言葉は人が作り出したもの】
「罪を許せるのは神だけだ」という考え方も人が作り出したものです。「神は信仰深いあなたを愛しておられます」とか、「神は不信者を罰せられます」という言葉を示唆する神の言葉なんかありません。すべて人の言葉です。人間は神を認識できないと公言している人が、神を語れば嘘になります。人が神を主語にして語れば、神を騙る(かたる・詐称する)ことになります。だからイエスは神を騙らず「あんたの罪は赦される」・「寝床をたたんで歩いて帰れ」と病気の男に言ったのです。罪の呵責を取り除き、関節痛の痛みを取り除く良い医者が現代にもいるように、イエスは中風の男を元気にして家に帰しただけです。その際に、イエスは神の名を利用しなかった事実をマルコは強調しているのです。
謙虚な振りをして、神の名を利用して自分の意見を述べる宗教的な人の考えを、イエスは「あんたの罪は赦される」という一言だけで完全に否定しました。このような生き様を見せたイエスをマルコは示しているのです。
【ぼくたちは】
神を騙って社会を混乱させるようなことはもう止めにして、マルコが伝えたイエスのようにぼくたちも、神を騙らず、すなわち神抜きで、現実の人に正面から対応しつつ生活することにいたしましょう。