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「ぼくたちは分類を拒みます」20190818

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「ぼくたちは分類を拒みます」2019年8月18日

聖書 マルコ 八章 二十七節~三十

 

 このところ、宗教全般に反対しておりますし、従来のキリスト教に対立する説教をしてきたために、この教会はキリスト教じゃないんじゃないかという、指摘がありました。昔からのキリスト教でないことは確かです。それがいけないわけじゃありませんが、もしそうなら、ぼくたちは何なんだ、という問いかけを受けました。それもそうだなと思って考え続けています。キリスト教を一言で表現できませんけれども、正統派を名乗るキリスト教の考え方を、まずおさらいしておきます。

 

【キリスト教の救済論】

 「人は生まれながらに罪を持っており、神から裁かれる。しかし、全ての人が永遠に滅んでしまうことを望まなかった神は、人を救うために独り子をこの世にお遣わしになった。ところが、この世は神の子イエスを受け入れず、十字架にかけて殺してしまった。しかし、これで神の計画は壊れてしまったのではない。これはただの死ではなかった。イエスは世の人の罪を一身に背負い、罪人の身代わりとして十字架にかかってくださったのだ。イエスが十字架上で殺されたことによって、罪は贖(あがな)われたのである。

 だから人は自分が罪人であることを認め、罪を告白し、その罪を引き受けて十字架にかかってくださったイエスをメシア(キリスト・救い主)と信じ、バプテスマを受ければ、神の赦しを受けて救われる。それだけではなく、神はイエスを三日目に復活させて、死に対する勝利と永遠の命を保証してくださったのである。ただし信じない者は永遠の裁きを受ける。」というようなことです。以上のことを信じて告白すれば、間違いなくキリスト教徒として福音派教会に受け入れてもらえます。

 

【イエスの殺害の意味づけ】

 このような神学が登場したのは、イエスが十字架にかけられて殺された事実を、弟子や信奉者たちが受け入れることができなかったからでしょう。

 そイエスの弟ヤコブを筆頭にした弟子たちが、イエスは全ての人の罪の代価として、犠牲になって下さっただ、とメシアの死を意味づけたんでしょう。犠牲を捧げることによって赦されるという神学はユダヤ教を踏襲(とうしゅう・そのまま受け継いでいる)しています。

 

【イエスの問いかけ】

 ある時、イエスは自分が人々からどのように思われているか、と弟子たちに尋ねました。「『洗礼者ヨハネ』だと言っております。他に『エリア』だと言う者も、『預言者の一人』だと言う者もいます。」と弟子たちは答えております。

 自分がどのように評価されているかということをイエスが気になさっていたかのように感じますけれども、他人の評価を受け入れなくていいと人々に教えたイエス自身が他人の評価を気にしたとは思えません。そうであれば、弟子たちの受け止め方を問うための導入として、イエスは人々の反応を問うただけでしょう。

 そこでペトロが「あなたはメシアです」と答えています。ペトロは教会と弟子たちの代表です。

 マタイ福音書では「あなたはメシア、神の子です」(マタイ十六章十六節)と答えたペトロの告白の上に私の教会を建てる、とイエスは言います。教会の土台はペトロの告白だというのがマタイ福音書の主張です。そのマタイは、「イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、と弟子たちにお命じになった」としています。すなわち、マタイのイエスは、自分がメシアであることを認めていたことになっているんです。しかし、「あなたはメシアです」という告白が、キリスト教の真髄であり、教会の土台であるならば、それを隠すなんて、筋が通りません。

 これに対してマルコでは、「誰にも話さないよう弟子たちを戒めただけです。これ「メシアだと告白されること」をイエス自身が拒絶したことを示す言葉だとぼくは感じました。口止めしたのは、「あなたはメシアです」と誰にも言われたくなかったからだと思います

 ぼくの話に拒否反応を示す方には、理解しづらいと思いますので、誤解されないように、言い直しておきましょう。これは、イエスをメシアだと告白した弟子と教会の言葉を、イエスが拒絶したことを示す言葉である、とぼくは解釈しています。

 

【分類しない方が事実に近い】

 一般社会でも会社でも、立場をはっきりさせることで、人を分類します。それが世間の常識です。けれども、人の考え方や感じ方を分類することなどできません。先週申しました通り、お前は何者だ、と問われても、はっきりと言えない、既存のジャンルに分類できないと感じるのが事実です。

 キリスト教徒とはこんなものだと教えられ、教会が教えた教義を、そのまま信じなければクリスチャンにしてやらない、と脅されて、「はい、信じます」と答えましたけれども、教えられたことを一言一句そのまま信じたわけじゃありません。今更言われても困ると思いますが、皆さんもほとんどそんな程度だったはずです。違うでしょうか。

 キリスト教の教義は、長い時間をかけて学者たちが考え協議して作ったものです。しかもその解釈をめぐって、たくさんの諍(いさか)いが起こり、たくさんの教派が生まれたんです。この事実を考えただけで、一つの意見に纏めるなんてできないことは明白です。

 カトリック教会の教義は一つであると言いますけれども、年代によって、解釈に変化があったことも事実です。個々人の考え方を、教会会議で作った枠の中に入れることなどできるはずありません。教えたように信じなければ認めない。さあ信じる否か、と迫(せま)られても困ります。常識であるかのように迫りますけれども、そのような姿勢こそがおかしいんです。

 一般社会でも会社に入社する際に、定款の内容にしっくりこない部分もあるはずです。だいたい納得した程度で入社したはずです。全てをその通り受け入れます、と告白しなければ入社させないと言われたら、困るはずです。入社できる人は少なくなるでしょう。教会はそんなことを平気でしてきました。でもね、全てを受け入れている人なんか本当はいないとぼくは思っています。

 ぼくたちも真剣に聖書を読んでいるんです。真剣に読んできたからこそ、初代教会の教えをそのままでは受け入れられなくなっただけです。

 

【分類されたくない】

 先ほど、教会が教えてきた福音の内容を、お伝えしました。その内容をそのまま認められなくなったらどうすればいいというんでしょう。

 教会で習った告白をそのままできなければキリスト教じゃないと言われ、キリスト教会の仲間から外れなさい、と勧告されるんでしょうか。

 昔の人は、教会やお寺に従わなければ、葬儀してやらないとか墓にも入れてやらない、などと脅されましただから、村八分にされないために、教えを認めたんでしょう。しかし、現代人はそんなことを恐れません。逆に、檀家が逃げることを、宗教組織が恐れている始末です。

 仲間はずれにされることを、ぼくたちも恐れていません。ただ、先週言いましたように、今まではキリスト教の分類に入れられていたけれども、現状はそう言えなくなっただけです。ぼくらのアイデンティティーに関する疑問に対して考えた挙句、はっきり言うことができなくても、たとえば「イエスを好きなんです」という曖昧(あいまい)な状態でもいいはずだ、と先週言いました。

 イエスは神と共におられたが、人間を救うためにこの世に来てくださった神の子なんだ、と告白できないですから、伝統的キリスト教徒でないことは確かですが、だからと言って、異端者に分類されることもお断り申し上げます。でもね、キリスト教徒と言われる人の中にもぼくたちのように曖昧な人は大勢おられるに違いありません。そういう意味では、純粋なキリスト教徒なんていません。筋金入りのキリスト教徒もおられるでしょうが、その人々の信じていることが全部正しいわけじゃありません。聖書にはキリスト教の教義に合致する言葉もありますが、そうでないことも書かれています。絶対的なことは無いんですから、本当は、はっきり言えないのが事実なんです。そうであるにも関わらず「はっきりしろ」と他人に迫る人が多いだけです。そんな横暴に答える必要はありません。無理に分けようとする横暴こそが現実を無視しているだけです。

 

【イエスは分類されることを拒んだ】

 今日の聖書に戻れば、イエスは、自分のことをメシアだなんて言われたくなかっただけです。メシアと言っても人によって連想することは全く異なるはずですが、とにかく、ローマ帝国の支配下にあった当時のユダヤ人が希望していたメシアというカテゴリー(範疇・はんちゅう)に押し込められるのを、イエスは拒絶したんです。

 教会を代表して「あたこそメシアです」と告白したペトロの言葉をイエスが拒んだ、ということは、このように告白するのが当たり前だ、と主張する教会の姿勢を、イエスは拒絶するということです。

 マルコ福音書には、イエスによって救われた人たちの物語が残されています。その中に、「あなた(イエス)はメシアです」という教会が求めている告白の言葉出てきません。イエスが教会のメシア告白」を求めていなかった証拠です。メシアというジャンルに嵌(はま)らないイエスにメシアという称号を被せてはならない。ぼくらはイエスをありのままで受け入れよう、マルコは勧めているに違いありません。

 

【ぼくたちは】

 人をあるがままに受け入れたイエスを、ぼくたちもあるがままに受け入れることができれば、それが最高だと思います。イエスがメシアという称号を拒否したんだとすれば、告白によって人を拘束したり排除して小さく纏まろうとする教会は、イエスの意志に反していることになります。

 イエスが分類されることを拒んだように、ぼくらも分類されることを拒みます。それが可能性を広げることになると思うからです。

 

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