説教の題名を押して下さい
「権力者は民衆を恐れる」20220403
「権力者は民衆を恐れる」20220403
聖書 マルコ一章十四節、六章十四節~十六節
【プレビアス(これまでの)】
何もできない人、さらに言えば何もしない人もそのままで愛されています。そうでなければ生きていけないというのは誇張ではなくて事実です。人は愛されているという事実をそのまま伝えたのがイエスです。これが本当の情報、喜べる情報、つまりイエスが伝えた福音なのです。
イエスは社会通念に押しつぶされない生活を実践なさいました。しかし、ほとんどの人は社会通念に自分を合わせようとしつつも、それができない自分を責めて苦しんでいます。そんな無益な苦しみから逃れるために必要なことは、頑張ることではありません。頑張れなくても愛されている事実に気づけば良いだけです。このような単純すぎる解答は、常識はずれだという理由だけで受け入れにくいでしょう。
しかし、人は放っておかれても、頑張ろうとするものです。だから、輪をかけて「頑張れ」って鼓舞すれば返って害を生みます。
「大丈夫だよ、まずは自分の感じたままをやってごらん」って励ますだけで、自分の力以上に伸びる人が多いんだと思います。
励まされて潰れる人がいるかもしれません。しかしそれよりも、「もっと、やれ!」と叱られて潰れる人のほうが多いと思います。
イエスの無求(何も求めない)の福音は、現代にも有効だと思うので、ぼくは懲(こ)りずに、イエスの福音を伝えているのです。
【いいかげんな常識を捨てる】
教会の福音(宗教)に捉えられていない人は、自分を縛っている社会常識から自由になるだけで、救われるのですから幸いです。
社会常識なんて、どうせ人間が作ったものであることはだれでもご存じでしょう。結構適当なところもあるのです。ですから善い教えもあるでしょうが、完璧なものじゃないんですから、それに捕らわれ過ぎないように生活するという心構えを持てば良いのです。
一方、社会通念だけでなく、伝統的な教会の教えにも囚われている人は、こだわりが強いでしょうから、そこから解放されて救われるのは、ちょっと困難だと思いますけれども、まあなんとかトライしてみたいと思います。
イエスこそキリスト(救い主)であると信じれば救われるという教えが教会の福音ですけれども、それに凝り固まってしまうと、生活が片寄って歪(いびつ)になってしまいます。そういう凝りをほぐしてくださるのがイエスです。イエスが教えた福音は、キリスト教を含むさまざまな宗教から人を自由にするために語られたのだと言えます。だからぼくたちは、ぼくたちのままで良いのだよ、とイエスが励ましてくださったことだけを伝えていけば良いのだと、先週も話しました。
今だからこんな事を教会の中で牧師としてぼくは説教できますけれども、イエスの時代のイスラエルではできなかったでしょう。
【イエスは治安破壊者にされた】
理解しにくいかも知れませんが、イエスは、自由な生き様を推奨(すいしょう・他人に進める)したから殺されたのです。
イエスが生活なさっていた当時のイスラエルは熱心な宗教社会でした。社会を治めていた宗教はユダヤ教です。ユダヤ教に熱心な社会であったということです。
熱心な一神教徒というのは、八百万(やおよろず)の神や仏を知っているぼくたち日本人とは違いまして、激しく排他的です。
ユダヤ教の神しか信じてはいけないということです。他の信仰を持っている人を分離差別します。
人を分離する時の尺度は何かと言いますと、これが律法だったんです。律法で命じられているように暮らすことが民衆に求められたんです。律法に従うことによって神に仕えるのが善人で、律法を守らない者も守れない者も罪人に分類されていました。ユダヤ社会では、「善人と悪人」ではなく、「義人(ぎじん)と罪人(つみびと)」と言いますけれども、明確に分離されていました。
今の日本と同じように、義人は割の良いというか待遇の良い仕事に就けるけれども、罪人は軽蔑されている仕事にしか就けないというような明確な差別が社会の隅々にまで浸透していたのです。
病人や障害者も、神から罰を与えられてそんな身体になっているんだ、ということで罪人に分類されていました。しかも、そのようなことが昔は非常に厳しく規制されていたのです。
そんな状況の社会で、イエスは伝統的な律法解釈を批判して、伝統的な生活様式に従わない生活をしたのです。それだけではなく、当時の社会の罪人に対して「君の罪は赦される」と宣言もしました。さらに、罪の自覚に苛(さいな)まれない自分のような生き様を人々に奨めたんです。だから、社会を混乱させる悪人とみなされ、制裁(せいさい)されるのは当然のことです。イエスは、社会秩序を壊す者と認定されて死刑判決を受けて殺されたのです。
【イエスは殺される状況にいた】
さきほど言いましたように、ぼくは今だからこそ、教会の中で牧師の礼拝説教として語ることができているのですけれども、イエスの時代のイスラエルであれば、すぐに捕まって首を刎ねられていたことでしょう。ぼくが西野バプテスト教会に限っただけでも十七年も牧師をしながら後十日ほどで七十歳になるまで生き続けているのは、イエスの生活環境とあまりにも異なっているからです。イエスが殺されるまでの公生涯は長く見積もっても三年と言われております。もっと短かったとぼくは思っております。
突然に爆弾が落ちてくるかもしれないという不安のないぼくらと現在のウクライナ東部の住民のように、天国と地獄ほどに異なった状況で活動していたがためにイエスは殺されたのです。
バプテスト・ヨハネは為政者の私生活を批判しただけで殺されましたし、イエスは、理不尽に罪人とされていた人に「君は赦される」と宣言しただけで殺されたのです。
【ぼくたちは】
為政者たちや権力者たちの身勝手で、正当な理由なく、多くの人が殺されているのが現実です。庶民を抑圧する権力があってはならないのですけれども、現実の権力はそんなもんです。
民衆を抑圧してくる権力には抗う。その先頭に立つのがキリスト(選ばれし者)なのです。権力者は邪魔者を排除します。しかしいくら排除しても、首を刎ねても、十字架で処刑しても、権力者の知らない何処かからキリスト(選ばれし者)は出てくるのです。権力者が恐怖政治で押さえつけ、根絶やしにしようとした民衆が、絶えることなく現われてくる。これが復活なのです。
再来週の日曜日が復活祭です。イースターなどと言っても意味が違うので通じません。だからぼくたちは復活祭と呼びましょう。罪なき者が殺されているという絶望の中で、為政者が恐れる民衆の復活を、あらためて期待しましょう。