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「祈(いの)れなくていい」20191006

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「祈(いの)れなくていい」2019年10月6日

聖書 ルカ  一節~

 

 何にも囚われないで生活するために必要なことは「あなたはそのままで愛されている」という確かな知恵(情報、イエスの福音)を知ることだ、と先週お伝えしました。そう言われても、物足りなさを感じて、そんなはずはない、と考えるほどに、人間は極めて不遜(ふそん)な生き物です。

 

【宗教は祈りを強調する】

 何もできなくても祈ることはできるでしょう、とか、何かを望むなら、そのために必死で祈りなさい、という言葉昔はよく聞かれした

 そのように、宗教の多くは「祈りを強調します。なぜならば、「祈りには、組織的な宗教活動を個人の精神的な活動であるかのように思い込ませる働きが、組み込まれているからです。

 ユダヤ教の正典とも言える旧約聖書に掲載されている詩篇は、膨大な讃美集であると共に、祈りのでもあます。仏教にはお経があります。プロテスタント教会には形式的な祈りは少ないと思いますが、カトリック教会には祈祷書があります。立派だと思われている宗教は、立派な祈りをたくさん覚えておられるようで、立派で優雅祈りをなさるように見えます

 バプテスト・ヨハネの一団にも、ヨハネが教えた祈りがあったようです。さてイエスと弟子たちにそのような祈りがあったんでしょうか。

 もともと全員がユダヤ教徒ですから、ユダヤ教の祈り知っていたに違いありません。しかし、イエスの集団に、特有の祈りはありませんでした。のため、弟子たちが、無理矢理イエスに催促(さいそく)して教えもらった祈りが、今日「主の祈り」の元になっている祈りでした。

 

【イエスは(あまり)祈らなかった】

 朝早くみんなから離れて、イエスは、一人で祈っておられた、という記事ありますけれども、果たして、何をなさっていたのか誰も知りません。

 また、イエスは、逮捕される前に、ゲッセマネの園、「この盃を取り除けてほしい。けれども、御心のままに・・・」と祈っておられた、という記事も確かにあります。しかし、この時、イエスが、一人離れて祈っていた場所から弟子たちの所に戻ってみると、弟子たち全員が眠っていたそうです。そうだとすれば、誰がイエスの祈りを聞いていたと言うんでしょうか。あやしいもんです。

 イエスはペトロを起こして、「シモン、眠っているのか。ひと時も目を覚ましておれなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い」と言ってその場を離れます。そんなことが三度もあったってうんですから、これは、ペトロを筆頭にした弟子たちへの立派な批判だと判りますもしも、このような出来事が本当にあったと仮定して弟子たち何を祈ることができたでしょう。イエス自身も、三度も同じ祈りをしたっていうんでしょうか。たとえそうだとしても、何も変化はありませんでした。そうだとすれば、祈りにどんな意味があるというんでしょうか。

 さすがにイエス様は一所懸命にお祈りなさったんだなあって感心する人もいるでしょう。ルカ福音書のこの箇所には、〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴(したた)るように地面に落ちた。〕と、まるで映画を見ているような描写が書き込まれています。信者は、このような劇的な言葉によって心を動かされます。この言葉を覚えている人は多いでしょう。けれども、〔 〕が付いております。劇的、感情的に迫って来る言葉ですけれども、原文には無くて、のちに付け加えられたものです。上手な説教者の言葉と同じでそれ以外の何物でもありません。

 イエスの真剣な姿勢、弟子たちの頼りなさの落差を見事に強調しています。けれども、危機感のない弟子たちに意識高揚を求めるのは酷(こくな話です。最後の晩餐のぶどう酒で酔っ払って寝ている弟子たちが、イエス捕縛隊が近づいてきたこと付くことはありませんでした

 起きて祈っていなさい、とイエスはおっしゃったことになっていますけれども、呑気な弟子たちに何を祈ることができたでしょう。ですから、起きてっていなさいという言葉は、祈りを強調する宗教が言わせた言葉です。イエス自身も祈なかったでしょう。そして当然、弟子たちも祈ませんでした。イエスは祈らない人だった、とぼくは勝手に考えております。

 

【祈りは教えられるもの】

 ぼくも、教会にしばらく通って慣れた頃にあなたも、心にある願いを口に出して祈ってみなさい、と言われました。最後にイエス・キリストの御名通して父なる神にささげます、と言えばいいのよ、教えられました。祈りなんていうものは本来、形を教えられなきゃならないもんじゃないと思います。しかし現実はそんなもんです。

 もしも、イエスが祈りの人であったならば、弟子たちも、イエスの祈りを真似ていたでしょう。けれども、そうじゃありませんでした。だから、ヨハネの弟子たちがヨハネから祈りを教えられているように、ぼくたちにも祈りを教えてください、と弟子たちはイエスに願い出たんでしょう。

 

【弟子たちの求めに応じた短い祈り】

 そこで、しょうがなくイエスが弟子たちに教えたのが、いわゆる「主の祈り」です。いわゆる主の祈り」と言いましたのは、一般的に多くの教会の礼拝式で唱和されている「主の祈り」と、聖書の記事し異なっているからです。ちなみに、聖書神の言葉であると告白し、聖書の言葉一つ一つを大事にしているはずの教会で聖書の言葉通りじゃない「主の祈り」が唱和されていること、ぼくは、変だと感じています

 イエスが教えた祈りの言葉は、マルコにはありませんマタイとルカの福音書にありますが、異なっております。だから、二つを纏めて、一つの形を作ったんだろう、ということは理解できますけれども、聖書にない言葉も付け加えられております。変だと感じていたので、ぼくたちの教会では独自の「主イエスの祈り」を唱和しています

 本当のことは判りませんが、今日は、ルカが伝えているものを、イエスが弟子たちにお教えになった祈りだと仮定して考えてみま

 それにしても、イエスが弟子たちにお教えになった祈りの最大の特徴は、とにかく短いことです。

 マタイの並行箇所の前には、イエスが、長々と祈る人を批判た件(くだり)があります。祈りの長さが権威を象徴するかのように、長々と祈る人がたくさんいたからでしょう

 弟子たち、長い祈りを教えてもらえるもんだと思っていたはずですしかし、イエスが教えた祈りは短かったんですこんなに短くていいのかって弟子たちはがっかりしたでしょう教えてください、とお願いして教えてもらっておきながら、足らないように感じたんじゃないでしょうか。礼拝式の中で、眠くなるほど長くお祈りが続く教会るくらいです。多くの人が、主の祈りだけじゃ足りない、と思っているんでしょう。

 南無阿弥陀仏か南妙法蓮華経、と短く唱えればいいという教えは、仏教の中にもあります。しかし、こんなもんじゃ足りるはずがなと考える人が多いんでしょう。その結果、何度も唱えます偉いお坊さんが、これだけでいい、と言っておられるにも関わらず、何度も唱えなきゃならない、と思うなんて、失礼な話です。

 とにかく、イエス祈りは短かったんです。

 

【アッバ】

 もう一つの特徴は、言葉そのものにあります。まず、語り出しから変です。「父よ」と訳されていますけれども、「アッバ」です。英語の「パパ」に相当する言葉です神様にお祈りするのに、パパなんておかしいよ、と思った翻訳者が、これは「父よ」がふさわしい、と考えたんでしょう。もしそうだとすれば、これも失礼な話です。

 自分たちの主であるイエスご自身が教えてくださったはずの祈りの言葉を、礼拝の場で使うには相応しくないと考えるなんて、そして、自分が相応しいと思う言葉に勝手に変えたんだとすれば、こんなに失礼な話はありません。

 「パパ」という表現に込められた微妙な意味合いを込めて、イエスわざと、「アッバ」という言葉を使ったんだとすれば「父よ」と訳してしまった途端に、「アッバ」の微妙な意味合いを削り落としてまったことになります。

 主イエスよりも偉い人が教会にはたくさんおられるということです。イエスは、礼拝の中で使っちゃいけないような言葉を使うことがあるので、注意が必要なんでしょう。たとえば、「便所」という言葉もその一つですね。あっ、言っちゃった。「ピー」「××」ですね。

 話を戻しますと、イエスの気持ちを汲み取るためには「アッバ」という言葉をそのまま残すか、「父ちゃん」と翻訳するべきでした。変だと感じますけれども、そこにイエスの狙いがあるはずです。多くの宗教、かしこまって祈ることが必要だと教ますけれども、イエスは、そのような宗教の教えに、真っ向から反発して「アッバ」と呼びかける祈りを教えたんだと思います。

 かしこまった祈りが必要だと思っている多くの人に、そんな祈りは必要ない、とイエスは言いたかったんでしょう。そして、それがいわゆる「主の祈り」だったはずです

 

【ぼくたちは】

 イエスこそ、主である、と告白しながらイエスが望んでいなかったことを、ぼくたちは、平気でやって来たように思います。

 先入観を捨てれば、もっとイエスの実像に迫ることができると思います。イエスご自身が迷信から解き放たれ人です。イエスは、その感動と喜びを、周りの人に伝えたかっただけです。その素直な感動が、ぼくたちにも伝わってきたんです。だから、イエスの福音は、決して難しくありません。多くの宗教が求めるような、神に対するかしこまった祈りも不要です。

 そのままの自分を大切に思大切に扱うように心がけるだけで、イエスが伝えたかった福音の真髄(しんずい)に迫っているはずです。

 

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