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「マルコは現実の救いを福音書に書いた」20220731
「マルコは現実の救いを福音書に書いた」20220731
聖書 マルコ福音書一章二十一節〜三十四節
イエスが伝えた情報は普段に耳にする情報ではなくて、聞いたこともない情報だったということを伝えたくて、先週は「経験したことのない福音」と題して話しました。
イエスが伝えた情報は、それまでに教えられてきた情報とぜんぜん違うということ、強いて言えば伝統的な考え方と正反対の内容であるということを、ぼくは今までにもいろんな例を挙げて説明してきました。
伝統を教える教師からは狂っているとしか思えないような教えであったとか、使い古されている表現ではコペルニクス的転回だとか、古典的な宇宙論から現代宇宙論への転換にも例えて話してきました。
肉眼や小さな望遠鏡で見ていた頃には自分たちの銀河だけが宇宙であると考えていた人類は、およそ百年前、星雲だと思っていたものが、遠くにある他の銀河であったことに初めて気付いたのです。しかもそれらの銀河が互いに遠ざかっていること、すなわち宇宙が膨張しているなどということを、観測結果によって知ったのです。人類の事実認識がそれほど大きく変化したのが、たかが百年ほど前であったということは驚き以外のなにものでもありません。百年前の事実観測が、数千年続いていた人類の思い込みを覆(くつがえ)したのです。宇宙も人間も七日の間に創造されたという神話を信じていた人にとっては、聞き捨てならない出来事であったとしても、観測された事実は認めざるを得ないはずです。
この観測事実が、伝統的な宗教心を脅かすと考える必要はありません。天地創造物語が事実の羅列ではなかったことを認めれば良いだけです。書かれた聖書の言葉が間違いのないものだと信じる伝統的な原理主義的解釈が間違っていたのだと受け止めれば良いだけのことです。信じ込んできた内容を事実に則して修正することは信仰者の恥ではありません。そうではなくて、それこそが、信仰者が獲るべき真摯な姿勢です。
【宗教者に嫌われ、民衆に好かれた】
当時のイエスが宇宙に対する知識を持っていたはずありませんから、イエスが天地創造の神話に異議を申し立てることはありません。
イエスが伝統的な宗教に異議を申し立てるようになったのは、伝統的なユダヤ教の教えによってはイエス自身が罪の呵責(かしゃく・責めや苦しみ)から解放されなかったからです。
イエスは自ら探求し続けて、人間は神に対する罪人ではないという事実に辿り着いたのでしょう。
神に対する罪人などいないというイエスの結論は、伝統的な教えを根底から覆(くつがえ)す考え方です。個人的にそのように信じていただけであったならば、放っておかれたか、狂人扱いされただけで済んだでしょう。しかしイエスは、自分が行き着いた結論を、他人に教える活動を開始したのです。だから迫害されました。
宗教社会の伝統を壊す者として登場したのではなくて、イエスは自分を救い得る理論を見つけ、その考え方を自分の福音(情報)として伝えただけです。しかしそれは、宗教と結束していた社会への反逆と受けとられたのでしょう。しかしそれは同時に、ユダヤ教の教えが腑に落ちていなかった民衆、すなわち、ユダヤ教によっては救われなかった民衆を救ったのです。
【受け入れられない神の性質】
イエスの時代を率いていたユダヤ教が教えた神は、自分の意に沿わない者を罪人に仕立て、罪人を罰する神です。罰を逃れたい者には、罪の代償(代価や犠牲)を求める神です。代価を要求する神を別の表現で表せば、いつも言うように「商売する神」です。
人間でも、育てた自分の子どもに代価を請求する親などいないように、創造して育てた人間に犠牲や供物を要求する神などいるはずありません。冷静に考えれば、だれにでも判るはずです。
宗教が教える代価を要求する神の性質は、自分に利益誘導するために神を利用している宗教家たちの性質が投影しているのです。
【罪人を認定したのは神ではなくて宗教家】
ですから、全人類を罪人に認定する神などいません。全人類を罪人と定めたのは、神の名を利用する宗教家たちです。
宗教家は、悪事を行う人、病人、不甲斐ない人を、罪の大小を問わず躊躇なく罪人と認定したので、すべての民衆は罪人にされたのです。
陥れられたのですから、だれもその状態から救い出されることはありませんでした。罪人はいつまでも罪の中を彷徨(さまよ)わねばならなかったのです。
【イエスは罪人の認定を取り消した】
これに対してイエスは、罪人だとされていた民衆から、罪人という罪状書きを払い落としたようなもんです。姦淫の場で捕らえられた女に対しても「あなたに罪を認めない」とイエスは言いました。罪状書きを女から取り外したのです。
これこそが、罪人と断定されていた民衆が「救われた」瞬間です。福音書の著者は、このように、人が実際に救われる様子を物語形式で示して見せたのです。
イエスが実践したこのような教えはイエス以前の宗教にはありませんでした。ですから、本当の意味で、福音を実践したのはイエスが初めてなのです。
しかし、イエス以降に、大事件が起きました。イエスが抹殺された後に設立されたキリスト教会には、イエスが作り上げた福音が、消し去られていたのです。
【イエスは悔い改めも求めない】
教義を信じれば救われるとキリスト教は教えます。けれども、現実の救いが見えないので、民衆には理解できないのです。
現実の救いは福音書の物語にあるのです。ある安息日にユダヤ教の礼拝堂に入ったイエスは、会堂内にいた男から悪霊を追い払いました。この出来事の前に、イエスは男に何も要求していません。シモンの家では、熱を出していたシモンの姑(しゅうとめ)を解熱(げねつ)させた時にも、何も要求していません。
イエスは、病気を罪の結果だと認めていないので、被験者に罪の悔い改めなど求めませんでした。犠牲や供物や金品はもちろんのこと、イエスは罪の悔い改めすら求めなかったのです。教会は悔い改めを求めますけれども、イエスは何も要求しません。これがイエスの福音です。
【ぼくたちは】
教会は、神の裁きなどと平気で言いますけれども、裁くというのは裁判用語です。神と人間の関係を誰が裁くのでしょう。神自らが裁くなどというのは不公平です。
旧約にもありますけれども、パウロも、おもしろい言葉を使っています。裁判などで決着をつけなくてよいように、訴えを取り下げて、神と人が和解するようにすすめています。それにしても、キリストがささげものとして介在するのですが、イエス自身が教えた真実の情報によれば、代価は何も必要ないのです。罪状書きを払い除けてくださるイエスの福音さえあれば、それだけで、ぼくたちは元気になれるのです。ぼくたちはイエスの福音(真の情報)だけを受け取れば良いのです。