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「流された責任は流せない」20220612

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「流された責任は流せない」20220612

聖書 マルコ 十四五十三節~六十五

 

 今日の説教はいつも視点とは異なります。

 さて、感染症の騒ぎによって、人間は流されやすい動物だと思い知らされました。群集心理で流されるのは愚かすが、これが人間で。しかしどこまでも流されていてはなりません。

 律法主義の嘘に早い時期に気がついたイエスは他人の言葉に流されない生き方を選びました。律法の要求や伝統的な言い伝えにさえも従いませんでした。それほど、自分の意見を大切にしたからイエスは殺されたのです。

 

【大祭司(トップ)気分次第

 ゲッセマネの園でイエスを捕らえた人々は、イエスを大祭司の連行しました。

 イエスを死刑にするために、最高法院を招集した大祭司は、イエスに不利な偽証を多くの者にさせたのですが、死刑にするほどの罪状見つけることはできませんでした。

 そこで、大祭司自らが立ち上がり「お前はほむべき方の子、メシアなのか」とイエスにうたのです。するとイエスは「そう。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えたと書かれています。これだけの言葉死刑にするほどの罪状にならないとぼくたちなら考えます。しかし、大祭司は、この罪状で十分だと言ったのです。大祭司は、衣を引き裂きながら「これでもまだ証人が必要だろうか。冒瀆の言葉を聞いた諸君は、どう考えるか」と議場に問いかけたので、一同は、死刑にすべきだと決議しました大祭司の意向に沿うことしかできなかったからでしょう

 

【ピラトの対応】

 夜が明けるとすぐイエスはピラトの下に送られました。ユダヤ地方を任されていたローマの総督ピラトにとって、当時のイエスの活動など、脅威ではなかったでしょう。だからピラトはこんな騒動にかかわりたくなかったはずですしかし、ユダヤ地方の実力者たちの願いを無下に断れない仲だったからでしょう。祭司長たちの求めに応じてイエスを尋問しました。ピラトが「おまえはユダヤ人の王なのか」と問いかけると「それはあなたが言っていることと答えたのだそうです。意味深です。

 ユダヤ教の大祭司とローマ軍の総督ピラトの問いかけが異なっていのは当然です。自称「メシア」なのか、あるいは「ユダヤ人の王」なのか、という問いは、立場の違いによって設問者の意識がまったく異なっていることをしています。精神的宗教的にユダヤを治めていたユダヤ教の指導者たちの願いを訊いてやろうとしたものの、ピラトイエスを死刑にする理由を見つけられませんでした。そこで、もう一度イエスにチャンスを与えたのでしょう。

 祭りの度に、囚人の一人に恩赦を与えることになっていたのを利用してピラトが「あのユダヤ人の王を釈放してやろうか」と問いかけたところ、祭司長たちに扇動された民衆がバラバという男を釈放してくれと声げたのだそうです。そこでピラトが改めて「それなら、ユダヤ人の王とお前たちが言っている男をどうしてほしいのか」と問うたところ、「十字架につけろ」と群衆が叫んだのです。ピラトが躊躇していると群衆は、ますます「十字架につけろ」と叫び出したので、騒ぎになるのを嫌ったピラトは、バラバを釈放して、イエスを十字架につけることにしたのです。このように、権威や権力が交差した結果イエス十字架に掛けられたのだという理不尽さマルコは伝えているのです。

 

だまされた民衆】

 ローマ帝国支配下にあった従属国イスラエルでは総督ピラトと地元の利権者たちの間に太いパイプがあったはずです。地元の有力者たちが扇動したとは言え、結果的に「イエスを十字架につけろ」と叫んだのは社会構造的に一番弱いはずの民衆でした。そんな民衆の声に最高権力者ピラト動かされたのですから、人間社会は複雑なものです。民衆の声が勝ったと言っても、いわゆる民主主義勝利したのではありません。民主主義の仮面を被った権力勝利したです。民衆の希望が通ったとは思えません。民衆の中にまぎれてしまってい個人は、自分の良心に反することを、民主偽装した権力によって押し切られてしまったのです。

 

【任務を超えた虐待行為】

 しかも、この決定が下されて以降、法の執行者たちは、権力の求めを超えて暴走ました。

 妊婦や子どもや老人など、抵抗できない弱者を虐待して殺す兵士がいたように、まったく抵抗できなかったイエス、兵隊たちによって裸にされ、鞭打たれたのです。

 上官の命令に従ったのだとしてもそれが言い訳にならないほどのことをした兵士が、戦争犯罪者として裁かれたのも事実です。そもそも、武器を持って隣国に侵攻すること自体が人道的犯罪ですが、さらなる残虐行為に人間は流されやすいのです。たとえ戦争状態であったとしても虐待行為は兵士の役割を超えています。

 

責任を曖昧にする社会構造

 残虐行為が平気で行われる一因は、仕事の細分化にもあるでしょう。何事につけ、専門家が登場することから判りますように、細分化専門化が進められますと、仕事の目的が見失われてしまいますそして仕事の結果を予測できない業務では責任が曖昧(あいまい)になるのです。そんな状態で、権威に服従することが第一の目的になって、ただ上からの指示に従えという要求に応えているだけでは、仕事一部を担っている個人は無責任な行動に走ります。そんな無責任個人の集団、同調圧力を生み、他の個人を巻き込んでいくのでしょう。

 与えられた任務をこなしただけだという言い訳に効力はありません。だから、そもそも誰が何のために与えたのか判らなような仕事をしてはならないのです。それはあなたがなすべき仕事ではないのです。

 権力者の代理者として権力を行使するような仕事は、あなたの本来の仕事ではないのです。あなたが認めない規則や、あなたの良識に反する規則に従ってはなりません

 権力の執行人(代理人)になった個人が、良識を失くして、行為をエスカレートさせてしまうのは、自分の責任を感じていないからです。しかし、実際に行動した個人の責任は、個人に返ってくるです。

 

【ぼくたちは】

 盲目的に命令に従うこと善ではありません。何の声を聴くべきかは一人一人が決めることです。どんなに大きい権威に従ったのだと弁明しても、責任は自分に降りかかるからです。

 個人の自由思考停止させる社会は全体主義社会です。そんな社会を作らせないためには、個人が賢くなる他ないのです。権力の思い通りに操られないために、何があなたを操ろうとしているのかを、まず見極める必要があります。

 宗教や民主主義や権威者の名を使って、理不尽がまかり通っている現実が確かにあることをイエスの十字架事件は警告していす。イエスのような人を十字架にかける側になるか、守る側になるか、あなたはあなたの責任で選ばなくてはなりません。

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