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「触らぬ神に祟りなし」20210919
「触らぬ神に祟りなし」20210919
聖書 ガラテヤ書 三章十三節
キリスト教国であったアメリカも新旧合わせた信者数が国民の五十パーセントを切ったようです。強権的な宗教支配を続けているイスラム教だけは伸びているようですが、世界の先進国では宗教離れが進んでいるようです。
大東亜戦争後に戦勝国アメリカによる占領政策の一環として始められた日本キリスト教化の波に乗ったアメリカの宣教団の肝入りで組織を拡大してきた日本バプテスト連盟も、二千年あたりをピークに勢力が減退しつつあります。ご多分に漏れず。九月十五日に献堂五十周年を迎えた西野バプテスト教会も、泣かず飛ばずの状態です。
この期におよんで、尚も、ぼくがイエスにこだわっているのは何故か、自分自身でも明確にしておくために今日の説教に取り組みました。
【大切なもの】
最近衰退してきたとは言え、キリスト教が三世紀ごろから二十世紀にかけて大きな影響を与え続けてきたことは否めません。これほどまで勢力を拡大できたのは、もちろん教会組織を拡大してきた人々の努力があったことは確かです。しかし組織を拡大するに適さないと判断されて切り捨てられたものもあったはずです。その中に、最も大切なもの、すなわち「イエス自身が必死に伝えようとしたもの」が含まれていたと思えてなりません。
それは、イエス自身が最も必要としたことであり、庶民が何よりも必要としているとイエスが考えたことです。それを庶民に教えたかったから、イエスは家業も捨てて、放浪の福音宣教者になったのだと思います。
しかし、教会は誕生直後から「イエスがキリスト(人々を救いに導く選ばれし者)である」という信条にだけ焦点を当てて伝えてきたように思います。すなわち、多くの教会はイエスをキリストとして崇(あが)めなければならないという教義を伝えることに熱心なあまり、イエス自身が必死に伝えたことを見落としてしまったように感じます。イエスの福音が、教会の福音に変貌したことによって、キリスト教という宗教が誕生しましたけれども、「イエス自身が伝えた福音」が切り捨てられてしまった、とぼくは感じました。イエス自身が伝えた福音の真髄を堅持していなければ、イエスを伝える意味などないと思っているぼくは、イエスの福音宣教と教会の福音宣教のズレをどうしても消化できないのです。
【無神論と無宗教】
日本人は根っこのところで宗教に囚われていますから、たとえ無神論者であっても「宗教などいらない」とまで言い切る人は少ないでしょう。しかしぼくは、近頃の世界の潮流と同じように、神を教える宗教はいらないと考えています。
多くの人は宗教がなければ倫理や道徳の根幹を失くしてしまい、無秩序になると考えて、世の中が混乱することを恐れているようです。しかし、そんな心配は無用だと思います。なぜなら、秩序があるはずの宗教に支配されている人々の間で殺戮(さつりく)や無秩序が繰り返されているのが現状だからです。宗教があるからこそ混乱が生じているのではないでしょうか。
【ヒトの営みを大切に】
ある宗教による神概念が社会に定着すると、その社会での倫理、道徳、法がその宗教の影響を受けます。それぞれの社会が自分よがりな神の教えを持ち出すから、それぞれの社会間に戦争がおこるのです。
人心に巣くっている宗教が、ヒトという動物が本来持っている優しさを覆い隠したり、人間が本来伝え合うべき情報を歪曲(わいきょく)するから争いが絶えないのでしょう。
本来あるべき人間の姿というものを明確に規定できないまでも、ここまで繁栄してきた生物としてのヒトのあるべき生き様はある程度予想できるはずです。そういう大まかな規定の中で生きていく方向を探っていくのが、本来的な人間の生き様ではないでしょうか。自分よがりな神を主張せず、人間の生き様を大切にすれば、無闇な殺戮をおこなうことはなくなるはずです。
【宗教の神の律法に迷わされない】
キリスト教であれその前身であるユダヤ教であれ、宗教は自分勝手な神を持ち出して、人間を神の目線で評価しています。このように宗教が神の立場に立ったことが決定的な過ちです。神を誰も規定できないのは明白だからです。
到底規定できない概念の神を創造し、身勝手な神の判断に立脚して、他人をコントロールしようとするから、安定よりも混乱を生み出すのです。神を持ち出す宗教が多く存在するのは、それぞれの社会が自分よがりな神を創造した証拠です。
【イエスは人に注目した】
先ほど言いました教会の忘れ物、すなわちイエスが大切になさったことは何であったのか考えてみましょう。イエスの一番の特徴は、なんといっても、常に人間に焦点を当てたことです。土地の文化、すなわち宗教や法や社会習慣や道徳や倫理といったものの影響を乗り超えて、徹底的に、目の前の人間に注目しています。
たとえば、既存の社会では赦されるはずがない人に「あなたの罪は赦された」とイエスは言い切りました。
この時に、「神が赦してくださる」とは言わなかったことから判るように、社会が罪人と認定している人に、イエスは勝手に赦しを宣言したのです。
神を持ち出さないで、ただ赦しだけを宣言したのは、神に対する罪のために神から罰を受けていると思い込んでいる人の思い込みを振り払ってあげたかったからです。
【呪われた者】
罪や赦しを定めるのが「神」であると信じていたユダヤ社会において、イエスのように神にお伺いを立てることなく、罪人に赦しを宣言するなんて、神を冒涜(ぼうとく)していると判断されて当然です。ユダヤの神を公然と冒涜した罪のためにイエスは処刑されました。
律法によれば、木に架けられた者は呪われた者です。「呪われた者」にされることを承知の上で、イエスは受けて立ったのです。神への冒涜というよりも、律法が教える神を拒否したのです。
律法が教える神の「呪いなど怖くない」ことを示すために、自分の身に呪いを引き受けたのです。
【ぼくたちは】
ずっとキリスト教という宗教界に足を踏み入れてきた者として、ぼくは神を表現することに無理を感じてきました。しかし、何度も言いますように、イエス自身がお伝えになった福音によれば、律法が教えた神を恐れる必要などないことが腑に落ちました。このイエスの生き様こそを大切にすればいいのです。
組織論的には過ちをたくさんしてきましたけれども、そんなことにクヨクヨする必要はありません。ぼくたちは、ただイエスの生き様が示している福音を大切に、明るく生きていきましょう。今日の題を「触らぬ神に祟(たた)りなし」としたのは、宗教が身勝手に教える神に影響されるな、そんなもの怖くないという意味です。