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「あなたにもナルドの香油を」20210328
「あなたにもナルドの香油を」20210328
聖書 マルコ 十四章一節~十一節
小学一年生だったと記憶しています。田植えの見学に行きました。水が張られている田んぼに、お百姓さんが苗(なえ)を植えて行くのを見学させてもらいました。
苗が大きくなって稲(いね)になり、稲がお米という実を作ってくれるんだとわかりました。
リンゴや柿といった果実の中には種があります。柿の実を食べても、種を残しておいて、蒔いてやれば柿の木の芽が出てきます。ところが、お米の種が見当たらない。都会育ちのぼくは、「蒔けば成長して稲(いね)になる、稲の種はどこにあるのか」という疑問を持ったんです。
田植えの見学が終わって、先生が「お百姓さんに何か質問があるひと?」と尋ねました。ぼくは「田植えの時に使う苗(なえ)はどうするんですか」と訊いたんであります。
お百姓さんは「玄米のまま残しておいて、次の年に蒔いて、まず苗を育てます」と言ったんです。
その時、米の飯を食べて育ってきた僕は初めて、米は稲(いね)の「種」を食べていたことを知って驚きました。次の年の種まきをするために、食べ尽くさないで、残しておかなければならないことに初めて気づいたんです。
あの白いお米の「一粒、一粒」にいのちが宿っていたという強い衝撃を受けたので、六十年以上前の出来事ですけれども。鮮明に覚えています。今では、昨夜何を食べたか忘れています。
いのちは体によって引き継がれていきますけれども、物事を深く考えるようになった人間は、いのちだけでなく、自分の生き様や考えたことを、ことばや文字によって、伝え残そうとするようになりました。聖書もそのような人間の作業結果の一つでしょう。
【考え方はいろいろ】
いのちは一つですけれども、考え方は千差万別です。みんながよりよく生きていこうと考えているんでしょうけれども、考えつく方法は千差万別です。お互いの考え方が異なっていることで争いが生じます。意見の異なる相手を否定しようとするのは、利害関係がかかわっているからでしょう。
いろんな形があるということは、ぼくたちはさまざまな考え方を取捨選択(しゅしゃせんたく)して、自分の考え方を決めてそれを元に生活を築き上げなくてはならないということです。
民主主義だとか共産主義だとかいろいろありますけれども、どんなイズム(主義)も、人類の社会組織の発達以降のことですから、その効果を精査できるほどの歴史を持っていません。
【大切なことは一つ】
社会組織に対して、いのちは人間誕生以前から継承されているのですから、最も大切なことは、いのちの継承から外れないことです。
その大切なことを一言で表せば、弱いものをいじめないで守り育てるということでしょう。確かに食べなきゃならないので、たくさんのいのちあるものの体をいただくわけですが、不必要な殺戮をおこなわないというのが原則です。
そういう意味では、少数民族を大量殺戮するイズムには抵抗することが人類がとるべき行動です。それを考えると、ぼくたち日本人も、世界のために声をあげなきゃならないのです。
【イエスは人を大切にした】
さて、イエスは、弱い者の味方でした。なぜなら、イエス自身が弱い者だったからです。力では強いものになれませんでしたが、精神的には強くなったのだと思います。
最後の一週間を迎える前に、イエスはベタニア村に宿泊していました。ベタニアは差別された者たちの村だったからでしょう。
お気付きになったでしょうか。「イエスがベタニアで重い皮膚病人シモンの家で食卓に着いていた時」(十四章三節)と書かれています。異常な書き出しです。露骨な差別を受けていた村であったことが判ります。
ユダヤの過越の祭りの前週の日曜日、夜が開けると、イエスは、被差別者の代表として、村人たちの先頭に立って、首都エルサレムに登り、神殿の前までデモ行進しました。
その後、数日間は、ベタニアを起点に、イエスはエルサレムに通い、被差別者を解放するような教えを説きました。その週の木曜日の夕食はエルサレムに予約しておいた二階の部屋で弟子たちと最後の晩餐を食べたんです。
食後は、讃美歌を歌いながらエルサレム城壁外のオリーブ山のゲッセマネの園に行ったようです。そこで神殿警備兵に捕らえられました。
イエスはその夜の内に、即席のユダヤの裁判にかけられ、金曜日の夜明けと共にローマ軍のピラトから死刑判決を受けました。死刑は即時決行されることになり、午前中には十字架につけられます。この一週間を記念して、教会では受難週と呼びます。
復活祭前の、日曜日を外して四十日を数えた日から、受難節と呼ぶ慣習があります。この期間は節制して肉食を避けることもしたようです。とは言え、その前に肉をいっぱい食べておこうという浅ましい考えもあったようで、それが受難節前に一週間も行われるカーニバルの起源だといわれております。宗教行事である祭りも、いいかげんなもんです。
【女がイエスに香油を注いだ】
イエスがエルサレムで活動を始めてから、復活の日曜日までには、一週間しかありません。しかも実際にエルサレム神殿の前庭で論争的な活動をなさったのは、たった五日間ほどです。
イエスがエルサレムに到着した日は、イエスが進む道に棕梠(しゅろ)の枝葉が敷かれたことから、現在では棕梠の日曜日と呼ばれて、復活祭までの一週間を受難週と呼び、敬虔なキリスト教徒は、質素な生活をなさるようです。イエス一行は、朝にエルサレムに向かい、夕方には、宿泊先にしていたベタニア村に帰ったようですから、毎日この間を往復したんです。
そして、数日後、ベタニア村で食事の席についておられた時の出来事が今日選んだ記事です。
ヨハネの福音書では、ベタニア村にイエスによって蘇らされたラザロとマルタとマリアが住んでいたことになっております。他の福音書では、ラザロではなくシモンと呼ばれています。この話の細部は、福音書ごとに異なっているので、決定的なことは言えません。しかしとにかく、女がイエスに高価な香油を注いだ、というショッキングな記事は四つの福音書全部に書かれている通り事実でしょう。
【ルカだけが場面設定を変えている】
ただ、ルカ福音書だけは、場面設定をまったく変えております。すなわち、あるファリサイ派の家での事件にしています。時期も、十字架事件の直前には置いていないことから、解釈も全然異なっています。
それだけではなく、エルサレムに登って神殿の境内で教えたイエスは、夜は「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた(ルカ二十一章三十七節)ことにしております。
イエスはベタニアとエルサレムを何度も往復し、ベタニアに泊まっておられた、と記録しているマルコと決定的に異なっています。
マルコ福音書を読めば、イエスは、ベタニア村のマルタの家で食事と寝床を与えられていたように見えますし、それだけではなくて、ベタニア村を代表してエルサレム神殿への抗議活動をしていたように見えます。これに対して、ルカは、イエスがベタニア村のマルタの家で食事していた記録を残したくなかったから、マルコの記録を意図的に消しているように思えます。
ルカはなぜそんなことをしたんでしょう。ルカは自分の福音書をテオフィロという人物に献呈しています。この人物の背景は判りませんけれども、イエスを政治権力に対する抗議者のように思わせたくなかったからだと思われます。
【ベタニアで香油を注がれた】
ベタニア(ベート・アーニア)という名前の意味は、「嘆きの家」です。マルタの兄弟が、重い皮膚病(昔の翻訳ではライ病)だったと書かれていることからも、伝染病患者たちを隔離しておくための村だった、と考えられます。そうだったとすれば、誰もが関係を持ちたくない村で、イエスが宿泊と食事の世話を受けていたことを、隠したルカと、まさにそのことを強調して伝えてたマルコはまったく立場が違います。
「嘆きの家」でイエスが食事の席についておられた時に、非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた女がいたことをマルコは伝えています。高価な香油がなぜこの村にあったのか判りませんが、いずれにしても衝撃的な事件でしたから、この様子を見た弟子たちは怒りました。「なぜこんな無駄遣いをするのか。三百デナリ以上に売れば、貧しい人々に施すこともできたのに」と言ったようです。貧しい人々って、嘆きの家で宿泊させてもらっている自分たちのことのようです。尋常じゃない怒りをぶつけられた女に対してイエスは助け舟を出しました。「この女は、ぼくに出来る限りのことをしてくれた。埋葬の準備をしてくれたんだ」と言ったようですが、弟子たちには理解できなかったでしょう。しかし女には十分な言葉だったはずです。
殺されることを覚悟していたイエスの気持ちを受け留めた女と、女の気持ちを受け留めたイエスの息遣いがぴったりと呼応しています。
イエスを理解していなかった弟子たちと違い、女は「あなたの気持ちを受け止めました」ということを香油を注ぐ行為によって表したんです。
この後、イエスには嫌なことが立て続きますけれども、耐え難い出来事を受けとめなきゃならないイエスを、「判っていますよ。受け止めていますよ」と女はサインを送ったんです。イエスは想像もできないほどに慰められたに違いないと思います。
理由が何であれ、イエスが殺されることを、女一人の力では止めることなどできません。しかし、女は、そのままのイエスを受け留めたんです。最も大切な人間関係を作ったと言えます。
この女によって、すべてありのままに受け留められていることを確認したイエスは、自分の運命を受け留める覚悟ができたに違いないと思います。
ルカは、今際の際(いまわのきわ)のイエスに「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言わせました。しかし、マルコは、十字架上のイエスにこのような言葉を言わせる必要を感じませんでした。なぜならイエスはこの女にしっかりと受け留められていたからです。
人が、最も望んでいること、人が最も必要としていること、それは、受け留めてくれる人がいるという確信を得ることです。
【ぼくたちは】
この女はすでに、イエスに受け留められているという確信を得ていたんでしょう。だからこんどは、女がイエスに確信を与えました。人間関係にとって何よりも大切なことです。どのような繋がりであったとしても、このような人間関係を作れば、人はどんな状況をも乗り越えることができます。あなたにも香油を塗らせていただきます。