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「憲法を変えよう」20230205
「憲法を変えよう」20230205
聖書 マタイ福音書 十六章一節〜四節
毎晩、寝る前に雨雲レーダーを見ます。これを見ると、何時から何時ごろまで弱い雪が降りますとか、しばらく雪は降りません、などと細かく予報を知らせてくれますので、除雪に必要な時間を計算して起きる時刻を決めます。
雨や雪の日でも自宅から教会まで十四キロほど移動するのですが、ほとんど車の中ですから、それほど苦痛じゃありません。しかし、徒歩での移動となれば天候が気になります。農業も漁業も、旅するにしても自然の影響をもろに受けますから、刻々と雲の動きを知らせてくれるアプリを持たない昔の人は、研ぎ澄ました五感と経験によって、かなり正確に予想したのでしょう。機械に頼れなかった分、昔の方が人間力が長けていたのは明確です。空模様で天気予報をするという経験を昔の人は何度もしたんでしょう。このような人々に現代のテクノロジーの結果を見せても、にわかには受け入れないと思います。
子どもでさえ携帯電話を持っているんですがこんなことは、想像さえできませんでした。
二十歳の頃というのはもう五十年も前のことですから、半世紀も前のことをおじいちゃんから聞いてもしょうがないと思うでしょうけれども、私の中ではそんなに昔のことのような気がしません。まあとにかく、東京の学校の寮にはピンク色の電話がありまして、それで市外電話をかけると、十円玉が数秒ごとに落ちていくので、どんどん追加しなければならなくて大変でした。百円玉が使える緑色の公衆電話が国立(くにたち)音楽大学の外に設置されたので、わざわざそこまで電話するために行きました。テレホンカードはまだ使えませんでした。
あれから五十年、今は個人に直接電話ができます。掛け放題を契約しているぼくは、大阪の姉ちゃんに毎晩電話しても電話代は変わりません。昔を知っているぼくにとって、利便さを考えると今の電話代なんて安いもんです。テクノロジーの変化は大したもんであります。最近はフィリピンの牢獄の中からでも電話一本で仕事ができるのだそうです。ところが地震やミサイルで電気が飛んでしまうと何もできなくなりますから、普段から電気がなくても生きられる人間力を養っておくことは大切です。
【特別じゃない】
聖書の話に戻しますと、昔の人は空模様を見て、天候の変化をかなり正確に予想できたようです。そのように普通に人間が持ち合わせている能力を少し磨いて現実を見れば判ることがいっぱいあるのです。ところが、律法の専門家たちは、イエスがなさっていたことを、まったく理解できていなかったようです。
特別な事をなさるのがイエスだと考えている人が多いと思いますが、イエスは特別変わった事をなさったわけじゃありません。
イエスがサタンに誘惑されたという物語がルカ福音書にあります。ここに出てくるサタンはまるで現代のテクノロジーを駆使しているかのようです。一瞬の内にイエスを宇宙に連れて行って全世界を見せたり、神殿の屋根の端に連れて行って、飛び降りてみろと言った、というんですから、イエスにバーチャルな体験をさせたようなもんです。ロケットもドローンも無い時代にこんなことを書くなんて、すごい想像力だと感心しました。しかし、実際のイエスは、そんな突拍子もないことをなさいませんでした。
だれも見たことがないほど不思議な事件をイエスが起こしたとしても、それほど特別な事象を理解できる人は誰もいなかったでしょう。となれば、特別な出来事なんか意味ないんです。ですからイエスは、特異な(普通と特に異なっている)ことをしたのではなくて、普通の出来事で人を喜ばせました。ありきたりの生活の延長上で、普通のことにちょっとした変化を体験させる程度で充分だったんだと思います。そのちょっとした変化ならば誰でも気づくことができるからでしょう。
特異なことや常識では考えられないような出来事、つまり「しるし」(奇跡)を見たいと望んでいる人が多いでしょう。けれども、特異なものなんて何の意味もないし、望んでも出会わないよってイエスは言いました。
奇抜(きばつ)な出来事、つまり奇跡(きせき)なんて、マジシャンのパフォーマンスと同じで、そんな一過性のものは、人を一瞬驚かせることはできても、生活に活かすことができません。ですから、奇抜なことよりも、日々の生活に役立つような、ちょっとした変化が大切なのです。
【罪人を作る律法にも問題あり】
空模様を見分ける事を知っているのに、時代のしるしを見分ることができないのか(マタイ十六章三節)と、律法を守ることで生きている専門家たちを、イエスは批判しました。だれでも、自分が信じていることだけを認める傾向があるものです。専門家たちは昔からの教えに拘(こだわ)り過ぎて、目の前の変化に気づけなかったんでしょう。自分の考えに合わないことや考えたことも無い事を聞かされても受け入れられないものです。ですから、昔から伝えられている律法の教えに従わなくても、イエスの働きかけに接しただけで元気になっている人々がいる、という事実を専門家たちは認められなかったのだと思います。
昔からの言い伝えに従わなければならないと考えていた専門家たちは、掟(おきて)に従わない人を罪人だと決めつけていました。
しかし、従う人が善人で、従わない人が悪人だなどと言い切れないはずです。律法や法則のような昔からの言い伝えに誤(あやま)りや無理がある可能性もあるはずだからです。
はるか昔に決められた生活の法則や、誰か特定の人が作った法律を守らなければ罪人にされてしまうのは理不尽です。なぜなら、法則が時代や状況にそぐわなくなったとか、神のような絶対的な権力者が決めた法則ですら、初めから誤っていた可能性があるはずです。法則は、常に問い続けなければならないものです。
【ぼくたちは】
日本国憲法は国際法を無視した占領軍アメリカのGHQの介入によって一九四七年五月三日に施行されました。それ以来、日本は戦えない国となり、アメリカの実質的な属国としてアメリカの傘の下で守ってもらわなければ存続できない国になっております。初めの頃はそれでも生活できたのでしょう。しかし、今は日本国憲法施行時には無かった状況に囲まれております。中国は一九六〇年代に、今や北朝鮮までもが核を手に入れました。
すなわち、今は荒れた天候になりそうな世の中なのです。古いルールに則っていれば大丈夫だというのは幻想です。支配国アメリカに属国日本を守る義務はありません。
敗戦後すぐに、独立する意思を剥(は)ぎ取られた現代の日本人は自立する精神を失ってしまっているようです。
今や、自分で考え自ら発信する、そんな自立した生き様が求められています。法律通りに生きていればいいのではなくて、生活に合わせて、法律を変えなきゃならない時が来ているのだと思います。つまり、今は日本国憲法を変える必要があるのです。ぼくたちが自立する意志を表明すれば、イエスなら「それでいいのだ」と応援してくださるはずです。