説教の題名を押して下さい

「ルツは自らの判断で境遇を乗り越えた」20191124

20191005_072052706_iOS.jpg

「ルツは自らの境遇を乗り越えた」2019年11月24日

 

聖書 マタイ 一章五節~六節前半

 

【ルツ登場の背景】

 今日は、マタイ福音書のイエスの系図に登場する三番目の女ルツを見ます。「ルツ」はイスラエル人の誇りであるダビデ王の曽祖母(ひいそぼ・ひいばあさん)です。

 激しい飢饉に襲われたユダのベツレヘムに住んでいた夫婦と二人の息子の四人家族が、モアブ地方に移住しました。モアブはカナンからヨルダン川を渡った死海の東の地域で、信仰の父アブラハムと分かれたロトが選んだ土地です。ロトの娘がロトに産んだ子の名がモアブ(父よりの意味)です。(創世記十九章三十七節)ここにもそれなりの物語があります。

 移住先で夫が亡くなり、未亡人となった女が「ナオミ」です。そして、モアブの女たちと結婚した息子二人も早死にしてしまいました。

 ナオミが失意のどん底にいた頃、ナオミの故郷ユダの食料事情が豊かになったことが知らされます。そこで、ナオミは故郷に帰る決心をして、嫁たちに、「付いてきても希望なんかないから、親元に帰って、新しく出直すように」と告げました。しかし、嫁の一人「ルツ」は、どうしても付いて行くというので、ナオミはルツを伴いベツレヘムに帰りました。

 

【ベツレヘムにて】

 ナオミを見たベツレヘムの女たちは「あんた、ほんとに、あのナオミさんか」と言うほど変わり果てていました。ナオミは、「ナオミ(楽しみ)」と呼びかけられるのを拒み、自分のことを、「マラ(苦しみ)」と呼ぶようにと言ったほどです。

 

【落穂を集めるルツ】

 故郷に戻ったナオミたちに仕事はありません。モアブからきた女ルツは「落穂拾いに行っていいか」とナオミに尋ねました。

 ユダヤの律法に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記十九章九節~十節)と書かれています。

 貧しい者たちに優しい律法があったお陰で、落穂を拾うことは許されていました。とは言え、ナオミにとって屈辱的なことだとわかっていたからこそ、ルツはナオミの許可を求めたんでしょう。

 

【ボアズとの出会い】

 たまたま、ルツが落穂を拾い集めた畑は、ナオミの死んだ夫の親戚「ボアズ」の畑でした。

 ルツの素性を知ったボアズは、ルツに目をかけ、便宜を図るように労働者たちに指示しておきましたので、ルツが集めた穂を打ったところ、一エファほどの大麦が取れた(ルツ記二章十七節)とあります。度量衡(どりょうこう)を見ると、一エファは二十三リットルとあります。灯油の二十リットル・ポリタンク以上の収穫があったということです。

 落穂拾いで得られる量じゃないことを不思議に思ったナオミは、落穂拾いさせてもらったのがボアズの畑だと知らされ「ボアズはわたしたちの親戚です」(三章二節)とルツに教えました。

 ボアズが、ルツに好意を寄せていることを、感じ取ったナオミは、ルツに知恵を授け、ルツもナオミの言葉に従います。ここから、新しい物語が始まります。

 刈り取った麦を振るいにかける頃は、労働者は畑で寝起きしたようです。収穫に感謝し、一日の労働に疲れたボアズは、積み上げられた麦わらに潜り込み、眠りに就きました。そこに、ナオミに教わった通り、身体を洗い香油を塗ったルツが現れます。ルツは、寝ているボアズに忍び寄って、覆(おお)いの中にもぐり込みました。

 真夜中頃に、ボアズが寒くて目を覚ましてみると、被っていたはずの覆(おおい)がありません。手探りで探していると、足元に女が寝ているじゃありませんか。ビックリしたボアズが「お前は誰や!」と、叫びますと、「ルツです」と応えが返ってきました。

 続けてルツは「わたしを覆い守ってください。」「あなたは(わたしの)家を絶やさぬ責任のある方です。」と告げました。その意味は、「あなたによって子供を授からせてください」ということです。

 そんな出来事があったので、ボアズは、自分より上位にいる責任をはたすべき人から責任と権利を譲り受けた後、ルツを妻にしました。

 こうして、ボアズとルツに産まれた子供がオベド、オベドの子がエッサイ、エッサイの子がダビデです。

 

【危機を乗り越えて】

 ユダのベツレヘムで幸せに暮らしていた家族が、飢饉から逃れて、モアブ地方に行き、そこで夫と二人の息子を亡くしたナオミという女が、モアブ人の嫁ルツを連れて、乞食のようになって帰って来た。ここから、新しい命が生まれる物語が始まるんですから、そのまま大河ドラマに流用できそうな話です。このような壮大なスケールで、長い時と、それぞれのドラマを通して、モアブの女ルツとユダの男ボアズが出会ったんです。遠回りでしたけれども、これ以外に、二人が出会う可能性はありません。

 ルツ記の最後に、孫を抱いて喜ぶナオミの姿が描かれています。物語はハッピーエンドのように思えます。けれども、ナオミが受けた悲しみや死んだ人たちのことを思うと、決して手放しで喜べません。それが判るナオミの言葉が残されています。

 「ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでよ。全能者がわたしをひどい目に遭わせたんだから。出て行く時は、満たされていたわたしを、主はうつろにして(空手で)帰らせたんだから。なぜ、快い(ナオミ)なんて呼ぶんですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(一章二十節~二十一節)

 夫と二人の息子を亡くしたナオミの悲しみはけっして消えません。そして、そのような目に合わせたのは主(神)である。という宗教が教えた理念に、ナオミも囚われていたことが判ります。

 孫を抱いたナオミを見た故郷ベツレヘムの女たちは「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁、がその子を産んだのですから」と、宗教者のような解釈を唱えております。

 宗教者は、確かに、そのように教えます。しかし、夫と二人の息子を亡くしたナオミの悲しみは消えません。夫と二人の息子たちが、「ただこのために」生まれて死んでいった、などとは誰にも言われたくありません。にも関わらず、これが「神のご計画だったんだ」と宗教は教えます。

 

【神の計画なんかじゃない】

 「全能者がわたしをひどい目に遭わせた」「満ち足りていたわたしを、空手で帰らせた」「全能者がわたしを不幸に落とした」と宗教に囚われたナオミが言っておりますように、多くの人は、都合の良いことでも悪い事でも、神がなさったのだと言います。

 神が介入なさったから不幸になったかのように、また神が介入なさったから幸せになったかのように言うのは、何をするか予想のつかない神に対する恐れが、多くの人に植え付けられているからです。

 けれども、そんな解釈で、ナオミの心が癒されることはありません。

 では、どのように考えればいいんでしょうか。正直言って、ぼくには分かりません。けれども、冷静に考えれば、判る事はあります。

 宗教は、全能の恐ろしい神を人の心に刷り込んできますけれども、個々人の営みに直接介入して、人間社会を掻き混ぜる神なんかいるとは思えません。

 イエスが裏切られ、偽証され、十字架に架けられようとしていた時にも、それを阻止するために介入した神はいません。現在も行われているような権力者の暴挙を止める神もいません。

 弱い者が強い者に踏みにじられても、戦争で婦女子が殺されても、介入しない宗教の神とは何でしょうか。そんな気まぐれな神は、気まぐれな支配者が作り出したものに過ぎません。

 どんなことにも、直接介入しないのが神ならば、ナオミの訴えも的を射ておりません。夫や息子たちが早死した原因はモアブ地方に移住したからでしょうか。そんなこと誰にも分かるわけないじゃありませんか。

 

【混在する現実】

 結論を言えば、直接的には、だれのせいでもありません。もちろん、神のせいじゃありません。

 自分に取って都合の良い事も、悪い事もあります。けれども、それらは絶対的な善でも悪でもありません。絶対に正しい事も、絶対に間違っている事もありません。無責任な宗教に騙されないために「善悪を裁くことができる神などいない」ということをしっかり覚えておいてください。

 世の中には晴れの日も雨の日も、昼も夜も、夏も冬も、あるんです。晴れたらいい天気だと言う人が多いですが、晴れれば良いとは限りません。晴れだけでは作物も育ちません。そう言うことです。

 人の営みには、悲しみも喜びも、憎しみも赦しも、悪意も善意も、涙も笑いも、男も女も、生も死も、ともにあるものです。一方だけでは成り立たないんです。昔からのイスラエルの系図にも、様々あって、決して聖だけがあるわけじゃありません。

 聖(きよ)いことだけが書かれているとしたら、それは現実離れした嘘です。マタイは現実を書き残しましたから嘘じゃありません。そこに価値があると思います。

 

【責任を取ってくれる神はいない】

 悲しいことも苦しいこともあります。個人の卑しい心が原因になっていることもあるでしょう。ただし、それらにしても、絶対悪の結果じゃありません。

 ナオミもルツも、悲しみや喜びを、共に受けて来ました。そして、乗り越えた人々です。悪い結果も乗り越えて、新しい命に繋げていくのが人間の営みを支えて来た人間の底力です。出来事の一つ一つに関与する気まぐれな神などいません。

 

【ぼくたちは】

 ぼくたちが営みを続けて行く上で大切なことは、ぼくたちが一喜一憂する出来事の原因が、けっして気まぐれな神が与える試練なんかじゃない、ときっぱり言い切ることです。

 人生に直接介入してくる神などいません。「父よ」と祈ったイエスに、世間が考えている概念の神はいません。イエスは他人から助けられてきたように、悲しんでいる他人に寄り添っただけです。そんなイエスの福音に、神は必要ありません。

 自己評価し、自己審判してはいけません。審判に神を登場させてもなりません。人を裁かないイエスの福音を信じるだけで、審判する神から解放されます。それがイエスの福音です。系図に登場する人々は、現実の人の営みが、制度やしきたりを超えてきたことを証明しているんです。

1
Today's Schedule
2024.05.03 Friday