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「馬小屋も天国」20211212
「馬小屋も天国」20211212
聖書 ルカ福音書 二章 一節〜 七節
人間は、誰かに受け入れられなければ生きていけません。親でなくても、親の代わりをしてくれる人にせよ、誰かが面倒を見てくれたから人はいきているのです。
小さい赤ん坊が可愛く見えるのは、放っておかれたら死んでしまう赤ん坊の自己防衛作戦です。大きくなるとそんな防衛本能を失くしてしまう人がいますけれども、大人でも誰かに受け入れられているという安心感がなければ、不安のために精神が壊れて人間性を失い、自己や他人を虐待するようになるようです。
現代社会に起きる多くの事件は、若者を含む多くの人が自分は受け入れられていないという疎外感(そがいかん・よそよそしくのけものにされている思い)を持っていることに起因しているとぼくは考えております。
多くの人が疎外感を覚える社会がどうしてできてしまったのでしょうか。個々の事件を解決することに奔走するだけではなくて、社会のあり方を考え直さなければ、事件を減らすことに繋がらないと思います。
【協力する集団と分断する集団】
人間はなぜ社会を形成するようになったのか、という基本的な事を考えてみましょう。
元来は、協力して安全かつ効果的に獲物を捕らえるために、そして、協力して外敵から身を守るために人間は集団を作るようになったんでしょう。集団を作ることによって発展してきたのが人類であるはずです。
時代が進み、集団が大きくなった頃に、自分自身の欲を満喫させるために、集団を利用する個人が現れるようになりました。
集団を運営する個人が、自分にとって有益な者と無益な者を区別したようなことから差別が始まったのだと思います。
何をするにつけても、秀(ひい)でている人とそうでない人がいますけれども、秀でている人は一部で、多くの人はそうではないのです。ですから一部の人々は優遇され、多くの人は虐(しいた)げられていた。そんな社会が永く現代まで続いているようです。多くの人は、元来協力するために集まったはずの人々を、内部では対立し競争する相手と見なすようになったんでしょう。
今では、学校、会社、地域社会から疎外されていると感じた多くの人は、内に籠(こも)ったり、暴力的になったり、投げやりになっています。たとえ物理的には集まっていても、心が孤立化するような分断社会を形成するように導かれているように感じます。
家族からも疎外されていると思い込んでいる人は多いものです。このような人はもちろん、家族にも心を打ち明けることができません。だから自分の部屋に閉じこもります。
【北海道家庭学校】
北海道には百年以上も前に、同志社英学校神学科(現在の同志社大学神学部)を卒業した留岡幸三が五十歳の頃に設立した北海道家庭学校があります。そこでは感化教育が実践されました。夫婦の職員が罪を犯した少年たちと生活を共にし、食事の準備や農作業など自然と触れ合って、責任感を学び、何よりも自分が受け入れられていることを体感できるようにしたのです。
自然に受け入れられ、自然を大切にし、共に働く農作業を通して荒(すさ)んだ心が癒されて、人は健康的な生活を取り戻していくのです。
【ふさわしい相手が受け入れる】
人と話せないほど弱っている人には、カウンセリングも通じません。
人よりも動物の方が優しいですから、ペットに受け入れられる人もいます。それでもペットはまだまだ自己主張が強いですから、ペットを相手にすることができない人もおおいでしょう。そんな人には、植物が相手をしてくれます。庭やベランダの花たちは、好きでもない場所に植えられ、二、三日間放っておかれても「水くれ」とも言いません。植物にはそういう優しさというか忍耐強さがあるから植物を育てたがる人は多いのでしょう。とはいえ、まったく手が掛からないわけではありません。動物や植物を相手にできる人は、まだ元気な方です。動植物を相手にできないほど弱っている人はどうすればいいんでしょう。
どんな社会も動植物も相手にできない人は、仙人のように、お山に入り込めばいいと思います。大きな自然はどんな人をも受け入れて相手してくれます。自然木や自然石は、何も要求しません。その人のあるがままを受け入れてくれます。自然に受け入れられれば、少しずつ元気になるんじゃないでしょうか。そうして、時間をかけて、積極的に相手してくれる社会に、少しずつ戻っていけばいいのだと思います。
四十日四十夜で修行を終えて街に戻ったイエスも、自然に癒やされた一人かもしれません。
いずれにしても、その人の弱さに合わせて受け入れてくれる相手との関係に癒されて、人は強くなっていくのだと思います。
【行き場のない二人】
さて、未婚のまま、誰が父か判らないお腹の子を抱えたマリアを守ってあげられるのは、マリアの婚約者ヨセフだけであったから、ヨセフはマリアを妻にした、と先週話しました。ヨセフは実家でお産することができないマリアの苦悩を一緒に引き受けて、二人で故郷を離れました。こんな二人に定まった行き場はありません。
金もなく行き先も決まらないまま、臨月をむかえているマリアとの旅は楽じゃありません。そんな二人が行き着いた先はベツレヘムであったとマタイもルカも記しています。
三つ星や五つ星のホテルが丁寧にお迎えするのは身分の高いお金持ちや上等の服を着ている人たちです。今のぼくたちには想像だにできないほど惨めな旅人二人を喜んで迎えてくれる宿などありませんでした。
たとえマリアが臨月を迎えた妊婦であることを知って、かわいそうだと思ってくれる人があっても、家に迎えてくれる人はいなかったようです。最近は豪華マンションにお住まいのペットもおられます。けれども、二人が、入ることを許されたのは、家畜小屋(馬小屋というよりも家畜小屋)でした。
ウサギ小屋で生活なさっている方も確かにおられます。けれども、「わたしもイエスのように家畜小屋で生まれたかった」なんて人はいないでしょう。しかし、たかが家畜小屋されど家畜小屋だと今回初めて思いました。とにかく雨露(あめつゆ)凌(しの)げる空間が与えられたことは、この上ない喜びであったはずです。たとえ宿の豪華な一室が空いていても、二人には似付かわしくありません。二人にはちょうどいい、最も落ち着ける空間が家畜小屋だったんじゃないでしょうか。家畜小屋が二人を受け入れたのです。誰に気遣う必要もない家畜小屋は、お産する場所としては狂っているようですが、この時の二人にとっては、天国のようだったでしょう。
【ぼくたちは】
本当に受け入れられるということはそういうことです。あなたとわたしに必要なのは、その時の状態にふさわしい相手に受け入れられることです。普遍的な救いなんてありません。その時々に受け入れられることで十分です。