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「あなたは包まれる」20200510

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「あなたは包まれる」20200510

聖書 マルコ九章三十八節〜四十一節

 

【イエスは既得権者の律法解釈を批判した

 なぜ現代も二千年前のイエスの話をしているんだろうと、お思いでしょう、でもイエスの問題提起は現代人にとっても見過ごしてはならないものだから、ぼくはあなたに伝えたいんです。

 イエスは、けっして新しい宗教を創り出した人じゃありません。ユダヤの律法学者やファリサイ派(分離派)の律法解釈を批判しただけです。

 面倒になることが判っていながら、伝統的な解釈に、なぜ異議を申し立てたのかをまず知っていただきたいと思います。元来は、厳しすぎる労役などから民衆解放するために作られたものが律法です。ところが、時が経つにつれ、神の名を利用して、人の自由を束縛する律法へと解釈されたことによって、かえって民衆を苦しめる状況が作り出されていたという現状がありました。そのような律法解釈を、イエスは黙って見過ごすことができませんでした。なぜならば、そもそも、イエス自身が律法学者やファリサイ派の律法解釈によって苦しめられる社会の階層に属していたからです。

 ユダヤ教の影響の下で育てられたイエスが、若い頃に禁欲主義のバプテスト・ヨハネの下で修行なさったことが証明しているように、律法の束縛の下で生活していたことは明らかです。

 しかし、禁欲的な修行によっては救われ得ないことを確信したイエスは、修行などに関係なく人は無条件に愛されていることを確信したんでしょう。言い換えれば「そのままで包み込んでもらえる」ということです。「丸め込まれる」じゃありません(笑)。そのように理解したイエスは、それを福音(良い情報)として多くの苦しんでいる人に知ってもらう生き方を選んだんだと思います。この情報が正しければ、これを受け入れるだけで、全ての人は律法の束縛から解放される訳です。言い換えれば「救われる」ということです。簡単なことです。ただし、刷り込まれた伝統的な教えを払い除けることが難しいんです。これは、あなたにもわたしにも言えることです。

 

【道理に合わない律法には従えない】

 ユダヤ人が律法に囚われているように、日本人も、法律に囚われています。法律の根本は、モーセの十戒が的確に表現しているように、人民を守るために長い歴史の経験から人間が作ったもので、決して破っちゃいけない「道理」に近いものです。しかし、一部の人間の利益を優先するために、その他大勢の自由を制限する法律というものもあります。極論を言いますと、守らなきゃいけない道理と、縛られてちゃいけない法律があるということです。

 律法学者のような専門家たちは、勝手に法律を解釈し、尾鰭(おひれ)をつけて民衆を自由に操ることができます。この危険は現代も同じです。ですから、律法解釈(法律)は絶対的なものじゃないということを、はっきり認識しておくことが大切です。あなたの自由を制限する法律は絶対的なものじゃないということさえ理解していれば、イエスの福音(情報)を理解し、社会の制限から解放されて自由になることができます。言い換えれば、「救われる」ということです。だから救われるということは簡単なことなんです。そうは言いましても、イエスの弟子たちでさえ、イエスの福音を芯から理解していなかった、とぼくは考えております。そんな者たちが何とかイエスの弟子であり続けられたのは、そのままで「包みこむ」のがイエスの福音だったからに違いありません。

 自分たちを包み込んでくれたイエスの教えを携えて行って、教えをそのまま伝えた結果、多くの人を癒(いや)した、という記事があります。

 その際の出来事をイエスに報告した弟子ヨハネの言葉に気になることが書かれております。それが今日のために選んだ聖書に出ております。

 

【弟子ヨハネは特権者のつもりでいた】

 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」ヨハネが言っております。

 素性(すじょう)も名前も知らない者イエスに直結する弟子じゃない者が、イエスの名を用いて悪霊払いをしていた、という訳です。

 自分たちだけがイエスの名前を使うにふさわしい者だと思っていた弟子たちは、それ以外の者は偽物だと思ったんでしょう。現代の商売にこのようなことはよくありますよね。社員でもないし、フランチャイズ契約も結んでいない者が、勝手にイエスの名前を利用しているんですから、そんな商法違反を許せない、と思ったんでしょう。

 イエスの許可を受けないで名前を利用していたことは事実のようです。けれども、考えてみれば、悪霊払いに成功していたんなら、いいじゃないか、とも思えます。しかし弟子たちにとっては、死活問題です。弟子の立場を侵害されたと思ったでしょう。だから、弟子たちは、自分たちに従わせようとしたようですが、それも叶いませんでした。しかしとにかく、違法なことを止めさせようと努力しましたよ、と誇らしげにイエスに報告したように感じます。

 これを聞いたイエスは「いやいや、それはよくぞ言ってくれたね。無断利用を止めようとよくぞ努力してくれたね」とでも言ってくれるだろうと期待していた弟子ヨハネは、まったく予想もしていなかった言葉をイエスから聞くことになります。

 「やめさせてはならない。」とイエスはおっしゃったんです。しかも、その理由も軟弱なものでした。「私の名を使って奇跡を行い、その後で、私の悪口は言えまい。」と付け加えているだけです。

 アポストロス(使徒)と呼ばれた十二弟子を、かつては特権階級者だと、ぼくも思っていたんですが、実際には、弟子たち自己認識していたほどの特権をいただいていたわけじゃなかった、ということがこの物語を通して判りました。福音宣教は、信者に委ねられているのだ、とどんな教会でも教えておりますように、そうだとすれば、イエスの名前を利用することは決して十二弟子に与えられた特権じゃないと言えます。ぼくたちが、イエスの名を用いることは、決して特許権や著作権の侵害には当たらないということです。

 

【著作権を求める世知辛い世の中】

 話は変わりますが、近頃は、どんなものにも著作権を主張することが流行っております。クラッシックと言われている楽曲を練習のために使うことにも、利用料の支払いを求められるそうです。ぼくは、異常だと思います。多くの人が演奏したり歌ったりすることを作曲者たちは、喜ぶと思うんですが、作者たちがすでに死んでしまっているクラッシックの使用料は誰の懐に入るんでしょうか。同じ楽譜を利用しても、演奏者によって、どれも異なった結果が出る訳ですから、一つ一つが独創的な作品のはずです。同じ楽曲でも、演奏者が異なれば聞きたくもあり聞きたくもなしになります。何にでも著作権を求め、お金を絞り取ろうとするなんて、道理じゃなくて悪法ですよ。平均律を編み出したバッハや、音符の書き方を考えた人たちは、どう考えているでしょうね。

 文学や詩で使われている言葉は、ほとんど倣い覚えたものばかりですし、考え方も本当に独自なものなんかありません。科学技術や論文も、倣い覚えたことを基礎にして独自の研究があるはずです。極端な言い方ですけれども、全てにおいて独自の著作権なんて主張できないとぼくは考えております。

 

【十二弟子が権利を主張している】

 話は戻りますが、イエスは自分の福音を他の人が利用することに何の嫌悪感も持っておりません。

 自分の権威を侵されたと感じたのは、イエス本人じゃなくて、十二弟子たちです。自分たちを通してでしかイエスの名を使うことが許されないとでも考えているようです。イエス亡き後は、そういう弟子たちの特権が主張されて来たと思えます。ローマカトリック教会の法王がペトロの後継者であることもその証拠です。一人前の牧師と認められ、先輩牧師たちから信任されて、手を置いてもらわなければ、本当の牧師に成れない、という考え方が、バプテスト教会の中にさえ残っております。そういう意味では、ぼくは未だに弟子の後継者じゃありません。そんなぼくにとって、今日のイエスの言葉は心地良いです。なぜならば、指示にも従わないで、勝手にイエスの名前を使っていることを許せない十二弟子たちとは違って、イエス自身が、やめさせちゃいけない、そのままさせておけ、と言ったんですからね。ぼくも安心です。

 

【マルコはパウロを支持した】

 しかしなぜこんな物語があるんだろう、とぼくは考えてみました。マルコ福音書のこの記事は、イエスと十二弟子と誰かわからない人の関係をただ報告しているだけじゃないと考えました。具体的に言いますと、パウロの立場を擁護するために、マルコはこの物語を書いたんだろうと気づきました。

 パウロは、自分のことを「使徒(アポストロス)」と自称していますし、それをなぜか現代教会認めていますけれども、初代のエルサレム教会は、パウロを使徒と認めなかったことは明らかです。

 エルサレム教会の弟子たちの知らない輩(やから)が、挨拶もなく、自分勝手にイエスの福音を宣教していることをエルサレム教会が不快に思っていたことは、使徒言行録に明確に表れています。

 パウロは、自分が伝えている福音を認められないだけではなく、エルサレム教会が、その福音を亡き者にしようとしてくることに、悩ませられながら宣教した人です。パウロが捉えているイエスの福音と、エルサレム教会の使徒たちが伝えている福音が異なっていたことは、パウロの真正の手紙にも使徒言行録にも明らかです。そんなパウロの状況をよく理解した上で、マルコはついて来ないからといって止めるな、そのままさせておけとイエス自身に言わせたんだと思います。すなわち、イエスはパウロの活動をそのまま認めたはずだ、と言ったんです。

 復活したイエスを見た、と主張する直弟子たちとは違い、パウロは、ただひとりで 、十字架に掛けられた復活のイエスを見たと言いました。肉眼で復活のイエスそのものを見たと言えないパウロを使徒と認めないエルサレム教会を、マルコはイエス自身の発言で批判しているんだと思います。

 

【ぼくたちは】

 既得権(きとくけん)を主張する者たちに聞き従っていては、未来は見えて来ません。独自の活動でいいんです。実際にパウロの独自な活動があったからこそ、教会は、エルサレムを離れて、異邦人(ユダヤ人ではない人)の教会へと形を変えて発展することができました。これからの教会はさらに形を変えていくことになる、と思います。

 この二ヶ月ほどの間に、誰も集まらなくなった多くの教会の状況を見て、かつて、迫害を受けた教会が、新しい形を創造しなければならなかった歴史を考えさせられます。ぼくたちも、新しい教会の形を創造しなければならない状況に来ている気がします。

 許可なくイエスの名前を用いても、人が解放されている奇跡が実際に行われていれば、それでいいはずです。「止めさせてはならない」、「それでいいじゃないか」とイエスならおっしゃるに違いない、とぼくは考えております。

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