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「神を?利用する!」20220925

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「神を?利用する!」20220925

聖書 出エジプト記二十章七節

 

 先週は「信仰をつかむ」という説教題で話しました。先日は「信仰」が実体的な物ではないという内容の説教であったのに、「信仰」を「つかむ」という題にしたのはどうしてか、という質問を受けました。西野バプテスト教会のメンバーはさすがに厳しい質問をなさいます。

 「信仰」が誤解されていることによって世界中人々苦悩させられてきた現実をそのままにしておけないので、誤解を解ために努力せざるを得ないと考えていますそのためには「信仰」という言葉をしっかりと捉え直さなければという意志を示すために、疑念を呼び起こすことを承知で、敢(あ)えて「信仰つかむ」としたのです。もちろん、ユーチューブを見る人にアピールす狙いがあったことも否めません。

 そんなわけで、今日も、先週紹介した他の牧師のユーチューブの言葉を紹介することから始めます。なぜならば、彼らが聞き捨てならないこと教えているからです。

 

【神を登場させることが嘘の証明】

 ある牧師は、「信仰とは唯一の神を信頼することで、神の約束がその通りになると信じること」だと教えておりました。

 「唯一の神を信頼すること・・・神の約束がその通りになると信じること」だなんて言っておりましたが、その言葉の中にこそ最も許し難い嘘が表明されております。

 彼らは「神」を信頼せよとっているのですが、そもそも「唯一の神」が判らないのです。だから「神の約束」なんて言われても誰も理解できるわけありません。このような人たちが言う神がいて「唯一の神とその神の約束」が判れば誰も苦労しません。本人を含め誰も判らない神を登場させていること胡散臭い(うさんくさい)ので。「がいるなどという彼らの言葉こそ全く信頼できません。彼らに言わせれば、その神は明確に聖書に書かれていると主張するのですが、その聖書が信頼できるものでないことこそが確かなことです。

 

【聖書は信頼できない】

 お手元にある聖書は、いわゆるキリスト教会を組織化するために一冊に纏(まと)められた物です。大まかに言って紀元前数百年から紀元二百年ころまでに書かれた文書です。しかも、極右から左までさまざまな思想の持ち主が書いた文書ですから主張している内容もバラバラです。統一されているどころか、対立る内容が堂々とかれています。こんな物を、神様の霊を受けた人々が書いたなんてとてもじゃないが言えません。

 聖書に描かれている神を信じ、その神の命令に従えばいいのだと教えている人は、その聖書の出自(しゅつじ・出どころ)の現実を全く知らないか、それとも何かの悪意があって隠しているとしか考えられません。知らんけどね・・・。

 理に合わないことを信じ込めば、その人の精神が分裂してしまうのは当然の結果です。ですからみなさんは、矛盾した教えがあると感じたら、教えられたまま信じ込まないでください。精神を健全に保つ手段はれだけです

 いくら優れた人たちが書いた物であったと仮定しても(そんなはずありませんが)所詮(しょせん)は人間が書いた物ですから、当然たくさんの不整合や間違いを含んでいます。そんな聖書を神の言葉だと言い切ることがおかしいのです。

 モーセが山から持ち帰った十戒は神の指で書かれた物だと言いますけれども、それこそが作り話です。

 本当に神が自分の指で石に十戒を書いた(出エジプト記三十一章十八節と信じているのなら、そして、神の命令には絶対に従うのだと決心しているのなら、徹底してその信念を通せばいいと思います。しかし、まるで違うことを平気でなさる信者や教職者がほとんです。

 神様」「神様と呼びかける祈りをなさいます。神様はあなたを愛してあなたを救うために御子キリストをこの世にお遣わしになりました。神様はあなたの罪を贖(あがな代償をもってつぐなう)ために御子イエス・キリストを十字架に掛けられたのです、などと教える牧師が多いのです。しかし、話した言葉の中に、いくつ「神」が出てきましたか。そんなに「神」って言っていいんですか。

 

【十戒】

 さて、今日はいわゆる「モーセの十戒」を読んでいただきました。

 これはユダヤ教やキリスト教が大切にしている律法の大本(おおもと)です。その中の一節に「あなたの、主の名をみだりに唱(とな)えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおない(出エジプト記二十章七節)(申命記五章十一節)とあります。安息日を聖とせよという命令の前に置かれているのですが、なぜか安息日のことについて厳しく言う人たちでさえ、神の名をみだりに唱えてはならないという命令に対して無頓着だと思います。確かにみだりに(分別なくほしいままに)「神」の名を唱えてはならないと言う言葉に忠実であろうとしたユダヤ人たちが、「神」を表すヘブル語四文字に出会った時に、それを読まないで「アドナイ(主)」と読み替えていたために、どう読むのか判らなくなってしまったというほどです。しかし律法の書を読んでいた時に出てきた聖四文字を読むことはみだりに神の名を用いることりません。頓珍漢(トンチンカン)なことをしたものです。それほど神の名をそのまま使わないことに執着していにもかかわらず、主は従わない者を罰せられるだとかなんとか、よくも簡単に神に成り代わって他人を罰する言葉を言えたもんだと呆れます。

 噂(うわさ)しか聴いたことがない、見たことも声を聴いたこともない神を持ち出して「神は・・・ああだ・・・こうだ」と教えている牧師は何も明確に判っていないのです。自分の思いを伝えるのは勝手です

 聖職者たちの考える神のイメージがあってもいいでしょう。しかしそれは人が勝手に思い浮かべた虚像で実態ではない虚像を、まるで実在している人のように紹介したり、自分の考えを神の考えのように伝えるのは騙り(かたり・だまし、詐称)です。だから「神はこのように考えておられる」などと決して言ってはならない、とぼくは主張しているだけなんです。何度言っても理解されませんけれども、諦めずに言い続けているのです。

 

【ぼくたちは】

 「人を騙(だま)すために神の名を使うな」というのがこの掟の意味です。そうであるにもかかわらず、このような禁じ手(きんじて)を世界中の宗教家たちやっている。そのせいで多くの人が苦しい目に合っているのです。統一教会であれ、原理主義や福音派やカトリック、ヒンズー教、イスラム教、仏教、その他どんな宗教も、神的存在者の意志はこうだと告げるので、そのためにたくさんの人が殺されているのです。それは神の声じゃなくて、神を騙る人の声なのですから、そんな言葉に従ってはならんのです。

 このような宗教家の騙(かた)りに対してイエスは、自分の言葉で自分の責任で語ったのです。イエスを見直さねばならない理由は、ただこの点にあるのです。

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