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「個人的には復活しない」20240324
「個人的には復活しない」20240324
聖書 使徒言行録 一章一節〜二十六節
イエスの活動の噂を耳にした領主ヘロデは、「あれ(イエス)は私が首を刎ねたあのヨハネが生き返ったのだ、と言った」とマルコは伝えたのでした。権力者が、民衆の蜂起(ほうき)の芽をいくら摘んでも、雑草のようにあちこちで民衆が立ち上がってくることが復活です。
イエスの墓に出向いた女たちに現れた天使は「ガリラヤに行けばイエスに会える」と言った、とマルコは書いています。しかし、ルカは福音書の最後のほうで「都(エルサレム)にとどまっていなさい」(ルカ二十四章四十九節)と復活したイエスが弟子たちに言ったと書いています。同じルカが書いた使徒言行録の初めには、復活したイエスが四十日間にわたって使徒たちを教え、聖霊によるバプテスマを受けるまでエルサレムを離れるなと命令したと書かれています。マルコとルカがこれほど違うという事実を、多くの聖職者や神学者は、どう説明してくれるんでしょう。
新約聖書に収められた四つの福音書の中でマタイ、ルカ、ヨハネという三つの福音書では、復活したイエスが弟子たち(使徒たち)に姿を現します。これは教会にとって都合良い話ですけれども、こんな復活はあり得ません。
復活したイエスが姿を現さないのはマルコ福音書だけです。この事実だけを取り上げても、信じるに足るのはマルコ福音書だけだと判ります。他の三つの福音書は、マルコを否定するためにイエスが生きていた時と同じような姿で復活し、弟子たちに姿を見せたと書いています。ですから、少なくとも、この部分は嘘だと判ります。
イエスが生前と同じような姿で弟子たちに現れたという嘘の情報を教会が流したとすれば、教会は、すべての信者を騙す悪質な詐欺行為をしていたと言えます。しかも、この「復活神話を信じなければ救われない」といまだに教えているんですから、教会の厚顔(こうがん・ずうずうしいこと)さには切りがありません。
ここで大切な事実をお伝えしておきましょう。「自分は殺されるけれども三日後に復活する」とイエスが言った記事はありますけれども、そのような復活を信じなければ救われないなどとイエスは言っておりません。そうであるにもかかわらず、教会はなぜこれほどまでにイエスの個人的な復活を強調するのでしょうか。
【教会が個人的復活を強調する訳】
そこで、キリスト教会がイエスの個人的な復活を重要視する理由を考えてみました。
イエスの十字架以降、早い段階で教会は設立されたようですが、その際にイエスから直接に教えを受けた弟子たち、すなわち後の教会で「使徒(しと)」と呼ばれるようになった者たちを教会組織の中心に置いたことは想像に難くありません。中心的な職務を与えられたとはいえ、弟子たちに実質的な能力はなかったように思えます。そこで、弟子たちとその教会に権威を与えるために、彼らはイエスの復活を目撃した直弟子であったことに重点を置いたのでしょう。
十二弟子の内、イエスを売り渡したと言われるユダの後釜(あとがま)を選ぶ際に、使徒の条件をペトロが語ったことになっています。そこには「主イエスが私たちと共に生活なさっていた間、つまり、ヨハネのバプテスマの時から始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中から誰か一人が私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(使徒言行録一章二十一節〜二十六節)とあります。
使徒の条件の一つは「生前のイエスと共に生活していたこと」であり、もう一つは「イエスの復活を証言できる人」ということです。
教会の中心になっている使徒の職務は、生前のイエスについて話すだけではなくて、イエスの復活の証人であることだ、というのが福音書と使徒言行録を書いたルカの主張なのです。
ルカは福音書の最後で、復活のイエスが弟子たちに現れてくださって、復活した証拠を示してくださったのだと言います。亡霊でないことを示すために、焼き魚を一切れお食べになったとまで書いております。
生前のイエスのようであり、不意に現れたり消えたりもでき、四十日後には天に上げられて行ったのだそうです。イエスがそんなふうに復活したと信じることが信仰には欠かせないのだと教会は教えますけれども、イエスの福音を信じることと復活信仰は別物です。関係ありません。
イエスは復活に至る前に、自分は受難すると何度も弟子たちに告知しました。しかし、真剣に受け止めたのは、男の弟子ではなく、ベタニア村でイエスの頭に高価な香油を注いで遺体処理のようなことをした女(マルコ十四章三節)だけです。イエスの福音宣教活動が当時の権力者たちから、どれほど危険視されているかを弟子たちは全く理解していなかったのです。なぜなら、イエスが伝えていた福音は弟子たちにとって、あまりに過激で理解できなかったのでしょう。「神に対する人の罪を認めない」と教えたイエスは、ユダヤ教だけでなく社会をぶち壊す内容を宣教していたのです。天地が逆転するような教えだったので、ユダヤ教にどっぷり浸かっていた弟子たちは、イエスの福音を、全く理解できていなかったと思います。
【イエスの福音は神学を根底から覆した】
罪を赦してもらうために、神に犠牲を捧げなければならないというユダヤ教の神学は、キリスト教の神学と共通していることから、キリスト教の神学も贖罪論であることが判ります。「罪の女と言われていた女に「君は罪なし」と宣言した(ヨハネ八章一節〜十一節)イエスの福音の凄さを弟子たちはまったく理解していなかったと思います。
イエスをキリスト(神の子)と告白することで、イエスを日々の犠牲を必要としないほど特別な犠牲に仕立てたのは教会の神学です。自ら犠牲となってくださった神の子イエスを父なる神は復活させてくださったと教会は教えます。しかし、イエスが教えた福音にそんなものはありません。「君に罪なし」と宣言することによって、イエスは人を罪の呵責(かしゃく)から解放しただけです。
人を罪人にして、そこから救い出してやるというのは、マッチポンプ(自分で起こした揉め事を鎮めてやると関係者に持ちかけて報酬を得る)のような茶番劇です。そのように人の罪を責めるキリスト教もユダヤ教もその他の宗教も、人を救えません。
【ぼくたちは】
ぼくたちに「君に罪なし」と宣言してくださるイエスの言葉によってぼくたちは救われました。ですから、自分の罪の呵責に悩んでいる人に、ぼくたちもイエスのように「君に罪なし」と宣言して、イエスの福音を復活させましょう。