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「生きるか死ぬか」20210523
「生きるか死ぬか」20210523
聖書 マルコ福音書 三章一節〜六節
今日は五旬節(ペンテコステ)と呼ばれていて、過越の祭りから五十日目にユダヤ教がおこなう祭りの一つです。この日に神殿詣(しんでんもうで)していた弟子たちに聖霊が降臨したので聖霊降臨日だとキリスト教会では教えられております。
五十日目などというと覚えにくいですが、イエスが殺されてから、ほぼ四十九日を過ぎた頃です。そう考えれば忘れないでしょう。
どこの国でも、大事な人を亡くした人は、しばらくの間は、仕事も手に付かないものです。それを理解している周りの人たちは、その状態を大目に見てくれる。その期間が、七週間、四十九日ということです。
四十九日あたりから、人は元の生活に戻っていこうとするように、イエスを亡くした弟子たちも、五旬節までは目立った動きをすることができなかったんでしょう。ところが、この日に弟子たちは、聖霊に満たされ、突然元気になって、「イエスは、殺されたけれども、神によって復活させられたメシア(キリスト、救い主)です」と伝えるようになったのだそうです。それで、この日が教会の誕生日だとも言われます。
この日に三千人の信者を獲得したペトロの説教が使徒言行録(二章十六節〜四十一節)に記録されております。
もちろん、この時点のペトロが、これ程まとまった説教をしたというのは不自然です。ずいぶん後に教会がまとめた内容でしょう。
いずれにせよ、このように纏められた「教会の福音」は、「イエスがメシア(キリスト、救い主、神の子)である」という告白です。このことからだけでも、「教会の福音」と「イエスご自身がお伝えになった福音」とが異なっていることはご理解いただけるでしょう。「自分こそが神の子である」などということを福音としてイエスご自身がお伝えになったのでないことは明らかだからです。
「イエスこそがメシアである」という教会の福音が大切なのだと言う人もいます。けれども、イエスご自身がお伝えになった福音こそが大切だとぼくは思います。なぜなら、頑張れない人が救われるのは、イエスご自身がお伝えになった福音でしかないからです。
以上の理由を付けて、今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)であるにもかかわらず、ぼくは、イエスご自身がお伝えになった福音を説教させていただきます。
先週は、安息日の規定を言葉通りに守り抜くことよりも、お腹が減っていた弟子たちを守ることを大切になさったイエスの福音をお伝えしました。
今日は、律法の安息日規定に対する捉え方の違いが、実際の人の生活にどのように影響するのか、ということを考えてみましょう。
法律というものは使い方によって、まったく逆の作用をいたします。そういう意味で厄介なものです
現在、ぼくが最も気にしているのは、最近の感染症の広がりを抑えるために、人の交流を抑える法律ができつつあることです。
飲食店の営業を規制する動きが活発になって、従わない店には罰則さえ与えようとする法律が作られそうな勢いです。そこまでするのは、行き過ぎだとぼくは思うのですが、世間の流れは、そんなことさえ容認しそうです。
そんなふうに規定をどんどん細かく作るようになれば、本当に生きづらい社会になると思います。法律というのはそのように細分化して人の動きを制限する傾向にあります。こんなことは昔から行われていました。
律法の元である十戒を読めば、弱い者を保護するための取り決めであることはすぐに判ります。単純なものであったにもかかわらず、律法の受け止め方と運用の仕方を、専門家たちが定めたことによって、律法の本来の目的から外れた律法主義が生まれ、律法が歪められてきたのだと思います。
イエスの時代の律法主義社会も、細かい規定によって息詰まる社会になっていたようです。
弱い立場にいる一般民衆が、律法によって助けられるどころか、返って苦しめられるようなことになっていたというのが実状です。こういう社会現象は現在でもあるように、どんな時代にも付き物です。これが一番の社会問題、つまり解決しなければならない課題です。そして、ここにメスを入れたのがイエスだ、とぼくは考えております。
【イエスは律法を否定していない】
イエスは律法に違反してまでも人々を助けた、と理解している人が多いようですが、そうではありません。律法に違反することによって人々を救い出した訳じゃないんです。
「なぜ律法に従わないのか」と律法の専門家たちから責められていることから判るように、律法の言葉通りに行動しなかったのは確かです。しかし、イエス自身に律法を破っているという意識はありません。律法の一言一言よりも、律法の精神や意味を大切にする、という仕方で律法を守って生活している、と自己理解していたはずです。
【安息日と癒し】
ある安息日に、会堂に入ったイエスは、そこに片手の萎(な)えた男がいるのに気づいたので、彼をみんなの真ん中に呼び出しました。
みんなの注目を集めてから、一つの問いを投げかけました。そして、問いに答える人を待つことなく、答えは決まっているかのように、この男の萎(な)えた手を伸ばしてあげました。この日が安息日であったかどうかということに関係なく、この行為は、イエスにとって当然のことだったのです。むしろ、この日が安息日であったからこそ、律法の意図を十分に汲み取った裁判官のようにイエスは裁定を下しました。そして、その裁定を自分で執行するかのように、この男の手を癒(いや)したのです。
【イエスは律法違反者にされた】
会堂に集まっていた人々は、癒すことは仕事だという伝統的教えを信じ切っていましたから、安息日に病人を癒したイエスを「安息日に仕事をしてはならない」というモーセの十戒にそむく明確な違反者に仕立てようとしたようです。
律法の専門家たちは、イエスが癒しの行為をすることを予想し、期待して、手の萎えた男を会堂の中に引き入れていたのだと思います。かれらは、イエスが律法違反者である、という証拠作りをしたかっただけです。
そのような彼らの思惑を承知の上で、安息日に会堂の中で、イエスは男の萎えた手を癒しました。なぜなら、癒すという行為は、イエスにとって、安息日規定違反どころか、むしろ、安息日規定にふさわしい行為だったからです。
しかし、なぜそこまでして、律法の専門家たちはイエスを亡き者にしたかったのでしょうか。
【イエス抹殺を計画した人々】
お金の流れを見れば、世の中の仕組みを理解できる、と言われております。
イエス抹殺を企てた人々は、ただ単に伝統を大事にしていた人々ではなくて、経済と政治と宗教の指導者であり、利権者だったのです。
ファリサイ派とサドカイ派は、同じ宗教内部では勢力争いしている競争相手として仲が悪かったのですが、宗教によって民衆を支配する利権者であるという点では、同類です。利権者の立場でものを言い、それで尊敬や地位を勝ち取り、生活が成り立っている訳です。
立場がぜんぜん違うように見える二つの派がイエスを抹殺する目的において談合できたということは、同じ価値観を持っていたということです。彼らは、イエスの言動によって生活を脅(おびや)かされることを恐れた人々です。
イエスは、律法に自ら文字通り従うことをしないばかりか、人々にも律法を文字通り守るようには教えない。それどころか、無視したり、昔からの教えに反するようなことばかり実行したり、教えたりしたように見える。伝統的な律法解釈によって利権にあずかっていた人々にとって、伝統的解釈に異論を唱えているとしか見えないイエスは、自分たちの生活を乱す悪党としか思えなかったのです。
こんな悪党に群衆が煽動されたらたまったもんじゃない。伝統も国も壊されかねない。何よりも、律法を盾に生活している自分たちの立場がなくなる、そんなことを恐れて、イエスを抹殺することにしたのは確かです。このように、お金の流れを見れば、事件の裏が見えて来ます。
【生かすか、殺すか】
ところで、初めにイエスは問いを発した、と言いました。その問いとはズバリ「安息日にしてもいいのは、救うことか。殺すことか。」というものでした。もっと端的に言い換えれば、「生かすか、殺すか」という問いです。なぜならば、弱い立場に置かれている人は、生きるか死ぬか、という切羽詰まった状態に置かれているからです。しかし、利権者たちにはその意味が判りません。利権者たちにとっては、手の不自由な人が癒されるかどうかは、どうでもよいことなのです。それを見過ごしにできないのがイエスです。
【ぼくたちは】
さて、今のところは、ぼくたちがイエスのように抹殺される心配は、ありません。なぜならば、イエスのように宗教や政治の指導者たちをはっきりと批判し、弱い者を弁護する福音を語っていないからです。弱い立場の人々を苦しめる政治家や金持ちたちの害になっていないからです。それだけではなく、心の弱さを罪と結びつけて来た宗教は、利権者たちの益にさえなってきたからです。
このような本末転倒した宗教は、イエスの福音と関係のない教えをして来たと思います。抹殺される危険がないと同時に、人を本当に救う福音もないんじゃないでしょうか。
「生かすか殺すか」と問いかけたイエスの厳しさは、弱い者たちに対するイエスの優しさです。イエスの問いはぼくたちにも向けられております。ぼくたちは、誰の立場で聴いているでしょうか。ぼくたちも応えなければなりません。そしてぼくたちも、イエスのような立場に立って、弱い者を食い物にしている利権者たちに、問いかけなければならないのです。
イエスが律法違反する意思を持っていなかったように、ぼくも、法律に違反するつもりはありません。しかし、法律を運営している者たちが、弱い者を助けるという法律の目的を大切にしていなければ、そのような、人を大切にしない利権者たちに対して、ぼくたちも厳しく意見しなければなりません。
「言葉通りに従えばいいというもんじゃない」と、それくらいのことは言える教会でありたいと思います。それぐらいの存在意味のある教会として、イエスの福音を伝えるならば、イエスの福音の価値も見直されるでしょう。「生きるか死ぬか」の瀬戸際にたたされている教会が生きるためには、イエスが伝えた福音の生き様に立ち返る以外に方法はないと思います。