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「あなたをイエスに思える」20210404
「あなたをイエスに思える」20210404
聖書 マルコ 十六章一節~八節
ぼくは二〇〇五年(平成十七年)の四月から西野バプテスト教会の牧師をしております。ですから丸十六年を過ぎて、十七年目を迎えました。
西野バプテスト教会に迎えてもらえるようになったのは、前任者の中田昌男(なかだ まさお)牧師との繋がりがあったからです。
北海道バプテスト連合を組織している十六教会の一つ平岸バプテスト教会で、1988年から八年間牧師をしていました。
その頃にいろいろなことについて話し合った経験から、誠実な方であることを知っていました。ですから、中田昌男牧師を嫌いじゃありませんでした。ほとんどの牧師を好きじゃないぼくには珍しいことです。
2004年の春に、西野の近くにある、結婚式場の仕事を終えてから、突然に西野バプテスト教会の牧師館を訪問したことが、中田昌男牧師との再開です。それに至る逸話は、何度か話したことがあります。
他人(ひと)に言わせれば、奇跡のような出来事です。「ぼくは奇跡を信じませんが」と最初の説教で言ったことから、初めからぼくの評判は悪くなったようですが、本当はぼく自身が奇跡のような出来事の体験者なのであります。
一度は牧師職を捨てたぼくが、中田牧師に再会してから一年後に、西野バプテスト教会の牧師に迎えてもらったのですから、牧師に復活したようなものです。この業界では珍しい事件(奇跡)の体験者なのであります。
今日は復活祭ですけれども、けっして、ぼくが牧師職に復活したことをお祝いする日じゃございません。イエスの復活を祝う日です。
「イエスの復活」と言わずに。「キリストの復活」を祝う日だと多くの方はおっしゃいます。しかし、キリストという称号は、教会が成立してから言い得るようになった言葉です。この時点ではまだ「キリストが復活した」んじゃなくて、「イエスが復活した」と言うべきでしょう。
めんどうなことを言うのはさて置き、今日の中心は「殺されたイエスが復活させられた」ということです。イエスは死んで蘇(よみがえ)って下さったんじゃありません。言語的にも受身形ですから、これだけは確かなことです。
ここにも、現実を無視した言い換えがあります。このような言い換えは、現在の報道番組の手法と同じです。すなわち、確かな意図によって事実が書き換えられているに違いありません。
【生き返ったんじゃない】
ぼくは、はっきりと自分の意見を表明しておきます。殺されたイエスが復活させられた、と言いましても、イエス個人が生き返ったとは思っていません。ぼくだけがそのように考えているのではなくて、マルコ福音書の著者も、同じように考えていたと思います。
マルコ以外の三つの福音書では、死んだはずのイエスがマリアや弟子たちに、生前の時のようなイエス個人の姿を顕(あらわ)したように描いているので、イエスが生き返ったかのように受け取っている人が多いと思います。
しかし、三つの福音書が表現している復活後のイエスも、生前のイエスの身体ではありません。見えたかと思えば消えてしまうし、壁を通り抜けることができたようですし、一見しただけではイエスだと解らなかった時もあったようです。要するに、復活の体は、生前のイエスとは異なっていた、と表現していることから判るように、復活したということは、決して生き返ったことではありません。
それにしても、三つの福音書の著者たちは、イエスの個人的な復活という概念から離れることはできなかったようです。
しかし、マルコだけは、誰の前にも死後にイエスが姿を顕さないことで判るように、生前のイエスの特性を持った個人の復活を考えていない、と言えるでしょう。
【弟子たちはイエスの死を見届けていない】
イエスは殺されました。それを女たちは見ていました。しかし、弟子たちは誰も見ていませんでした。特筆すべきことに、マルコによれば、女たちの他に、イエスが死ぬ瞬間を誰よりも近くで、看取った人がいたことになっています。
その人とは、ローマ軍の百人隊長です。しかも、この隊長は十字架上で息を引き取ったイエスを見て、「本当に、この人は神の子だった」と告白した、とマルコは書いているんです。
後のキリスト教会の信者しか言えない告白を、異邦人の、しかも、ユダヤの敵であるローマ軍の隊長がした、と言っているんです。
この時点では、後のキリスト教会を代表する弟子たちでさえ、誰一人言い得なかった告白を、ローマ軍の隊長がした、と書いているんです。
変だと思いませんか。史実だとは思えません。ということは、どう見ても、教会の指導者たちへのマルコの批判だとぼくには思えます。みなさんはどう思われるでしょうか。
とにかく、隊長が本当にこんな告白をしたとは思えません。イエスが十字架にかけられているゴルゴダの丘の状況を考えてみてください。十字架の下で隊長が何をつぶやいていたとしても、彼のつぶやきが聞こえる所にはイエスの関係者は誰もいなかったはずです。誰も聞いていないはずの言葉が書かれているのだと考えるのが、最も道理にかなっています。そうだとすれば、これは隊長が呟(つぶや)いた言葉ではなくて、この福音書の著者マルコが隊長の言葉として、書き込んだ言葉でしょう。
いずれにしても、「イエスを神の子であった」と告白したのは弟子たちでないことは確かです。これは重要な証言です。
【十字架事件に続く日曜日の明け方】
マグダラのマリアが、イエスが葬られた洞穴状の墓の中に入ると、白く長い衣の若者が右側にいるのが見えた。その若者が「君たちは十字架につけられたイエスを探しているけれども、あの方は復活させられて、・・・「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。・・・そこでお目にかかれる、と弟子たちとペトロに伝えなさい」とそう言ったことになっています。
恐ろしくて墓から逃げ出した女たちは、だれにも何も言わなかった、ということです。(マルコ十六章一節〜八節)ここで「誰にも何も言わなかった」という部分は、他の福音書と決定的に異なっています。すなわち、マルコによれば、この事件を体験したのは女たちだけで、十字架事件以降に弟子たちは全く登場しません。弟子たちの出番が無いのですから、弟子たちの役目も無いのです。ここにも、弟子たちとその教会に対するマルコの批判が現れていると考えられます。
それじゃイエスはどうなった、と言うんでしょう。ガリラヤで会えるとはどういう意味なんでしょう。これが判れば、少なくともマルコが伝えたいイエスの復活を理解できると思います。
【イエスの福音宣教の初め】
ガリラヤと聞けば、イエスが活動を開始した地域を思い出します。マルコ福音書の初めに戻ってみますと、「ヨハネが捕らえられてから、イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音をのべつたえた」(マルコ一章十四節)と書かれています。すなわち、ヨハネが捕らえられたから、イエスはヨハネの活動を受け継いで、自分の福音宣教を開始した、とぼくは考えているんです。
もっとはっきり言えば、イエスが活動を起こしたのはヨハネが殺されたからです。だからイエスは活動を開始した時から、自分も殺されることを覚悟していたと思います。
【民衆の反応】
「人々はわたしのことを何者だと言っているか」とイエスは弟子たちにお尋ねになった。すると、「洗礼者ヨハネだと言っています」他に「エリヤ」だと言う人も、「預言者の一人だ」と」いう人もいます、と弟子たちは応えております。そこで、「君たちはわたしを何者だというか」とイエスは尋ねたところ、「あなたはメシアです」とペトロが答えた、ということです。(マルコ八章二十七節〜二十九節)ここでマルコが伝えたかった、もっとも特徴的な言葉は、民衆が「イエスは(殺されたはずの)洗礼者ヨハネだ」と告白している言葉でしょう。このように、イエスがヨハネのように見えた、ということにもっとも大切な鍵(かぎ)があると思います。
【ヘロデの反応】
イエスを見た民衆が「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったんだ。奇跡を行う力が彼に働いているのはそのためだ」とか「彼はエリヤだ」、「昔の予言者らしい予言者だ」と噂(うわさ)しているのを聞いたヘロデは、「わたしが首をはねたヨハネが生き返ったのだ」と言ったように書かれています。(マルコ六章十四節〜十六節)このヘロデの言葉は、マルコが伝えたいことに直結しており、復活の謎解きに欠かせない鍵の一つです。すなわち、ヘロデは、民衆よりも明確な言葉で「わたしが首をはねたヨハネが生き返ったのだ」と言っていることから判るように、ヘロデにとって、イエスは殺されたヨハネが生き返った姿そのものだということです。もちろん百人隊長の状況と同じように、ヘロデの言葉じゃなくてマルコの言葉でしょう。すなわち、これらの言葉によってマルコが伝えたい復活というのは、殺された個人が生前の姿を採って生き返ってくることではなくて、殺された人がまるで生き返ったかのように、別の人が活動し出すということです。
【弟子はガリラヤに行かなかった】
「ガリラヤに行けばイエスに会える」という、若者から弟子たちへの伝言を、マルコは福音書の最後に残しました。
ガリラヤでイエスが起こしたような事件はイエスの死後もガリラヤで立て続けに起きているから、見に行け、ということでしょう。もちろん天使じゃなくて、マルコの言葉です。
このように弟子たちに促(うなが)しているからには、弟子たちはガリラヤに行かなかったことを裏付けしていると言えます。すなわち、マルコが福音書を書いた時代(四十年後)になっても、弟子たちはガリラヤに、行っていなかったのではないでしょうか。
民衆が圧政を受けているガリラヤで、イエスが起こしたような事件を引き継いでいる人たちがすでにいたにもかかわらず、弟子たちは民衆を助けに行かなかったんでしょう。そういう弟子たちと、彼らが造った教会をマルコは批判しているのだとぼくは読みました。
【ぼくたちは】
宗教の教義を信じ込ませることじゃなくて、囚われている人を解放したイエスのように生きて、「あれは殺されたはずのイエスだ」と告白されることがぼくたちの使命だ、とマルコは伝えているんでしょう。人を囚われから解放するために、福音を伝えたイエスがたとえ殺されても、福音を受け継ぐ別の人が興(おこ)されてくる、ということがマルコが伝えた「復活」だと思います。このような復活ならば、ぼくたちも関わり得ます。これこそ現実の復活だと考えています。