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「国境なき母たち」20210124
「国境なき母たち」20210124
聖書 マタイ福音書5章38節〜42節
先週は、コンピュータをリセットする時のように脳もリセットした方がいいと言いました。
その夜から、まるで呪われたかのように、何度もパソコンをリセットしなければならない破目に陥ってしまいました。
三年ほど前から使っているマックブックプロに、一ヶ月ほど前に、一番新しいOS(オペレーションシステム/基本ソフト)を入れてから、面倒な事が起きていたんです。というのは、新しいOSには、古いプリンターに接続するためのプリンタードライバーが無いためにWi-Fiで印刷できなくなってしまったのでした。年末までは七年前のマックブックで対応して済んでいたんですが、年明けからは、word365が新しくなったようで、今までの説教文書が全て読み込めなくなってしまったんです。
それで、契約していたセキュリティーの会社に連絡して、リモートでいろいろ調べながら、エキスパートたちが何人も入れ替わりで、三時間ほど試行錯誤しながら作業してくれたんですが、解決しなかったので、夜中の二時過ぎに作業打ち切りにしてもらいました。改めて月曜日の午前中から、別の担当者と二時間以上作業したんですが、やっぱりダメでした。
午後からマイクロソフトのサポートに連絡して、三時間ほど付き合ってもらっても原因が解らず、その後にアップルのサポートに二時間ほど付き合ってもらったんですがダメでした。
ワードで作った説教の文書だけが開かなかったんです。それだけは開く、というのなら我慢もしますが、一番大事な所が狙い撃ちされたような感じでした。
ワードのプログラマーならば、解決できるかもしれないけれど、サービスのエキスパートじゃ解決できない事だと諦めました。しかし、しばらくして、自分で別の方法を思いつきました。
何時間も作業していた間に、アップル社の pagesというソフトで読み込める事がわかったので、これで読み込んで、文字全部をコピーして、Wordの白紙の文書に貼り付けることが出来たので、書式変更しながら、なんとか今までの説教文の形に近づける事ができました。
まだ、ちょっと読みにくい体裁ですが、スタイルをちょっと変えようとしただけで、滅茶苦茶な書式になってしまうので、しばらくはこの形で我慢してください。
【出来事はいつも突然です】
そう言えば、マイクロソフトのサポート担当者も、アップルのサポート担当者も、声が綺麗な若い女性で、丁寧な対応をしてくれたのが何よりも救いでした。こういう出会いならば突然の出来事でも許せるんですが、仕事ができなくなるような事が突然起こるのは困ったもんです。事件が起こるのはいつも突然です。担当者が態度の悪い男だったら、怒鳴り散らして、気分を悪くしているところでしたから、そうでなかった事が幸いでした。
大国の大統領も代わりましたし、一年前にはこんなマスク社会になることも予想できませんでしたから、世の中、一寸先に何があるか、判りません。ですから、何があろうとも、自分にできる最善のことを自分で考えてやっていくしかないということです。
コンピュータの専門家たちは、自分の範囲でなんとか希望通りに動かそうとしてくれましたが、できませんでした。ぼくは、どうにか使える機能を駆使して、自分がしたいことに使おうとしただけです。結果的には、なんとか自分で使えるようにしたということです。実際の生活を続けていくには、そういう俯瞰的(ふかんてき/高い所から見るような)な視点が必要だと言うことでしょう。
【聖書楽講座】
さて、ぼくたちは、毎週木曜日の午前中に集まって、聖書楽講座をしています。聖書を学問的に読むのではなくて、楽しく読もう、という意味で学ではなくて楽の字を使っています。タイプミスじゃありませんので念のため申し添えます。これは、専門家が聖書学を教える講座じゃなくて、神学士程度の街の専門家(ぼく)が参加者の意見を聴きながら話の方向を修正したりする程度です。事実、あらぬ方向へと会話が進まないように、時々修正する必要があるのです。
それでも、時々は神学士としてのコメントをすることも忘れていません。
【「ぼくは言う」は重要です】
とにかく、先週のその席で、イエスが「わたしは言う」と言って、ユダヤの伝統的な解釈から全く外れた律法解釈を、自分の責任で、おっしゃったことへの反応がありました。
今までそんなふうに考えた事がなかった、と聞かされて、驚きました。ぼくとしては何度も言ってきたつもりでしたが、参加者の心には届いていなかったようです。
世間に通用している伝統的な解釈を思い起こさせてから、それらを、まるで無視するかのように、イエスは「しかし、ぼくは言う」という仕方で自分の見解を述べたんですから、当時の社会においては、大変な出来事だったはずです。
先ほど言いました聖書楽講座の席ではこういう状況がしょっちゅうあることから判りますように、今のぼくたちの社会では、「わたしは、こう思う」なんて、みなさん平気でおっしゃいます。それだけ自由だということです。
しかし、現在でも、「牧師はそうおっしゃいますが、わたしはそう思いません」なんて言えない教会もあるらしいです。ましてや、イエスが生活なさっていた頃のユダヤでは、専門家の伝統的解釈に反することなど、言う人はいなかったはずです。なぜならば、こんな言葉を発するだけで、命が狙われる危険さえあったからです。そして実際にそのような言葉を怖(お)じけずに話した結果、イエスは殺されました。
律法の言葉を紹介した後で「しかし、ぼくは言う」とおっしゃったイエスは、殺される危険を覚悟していたということです。
それほど重い言葉ですから、その重さに気付かずに読んでいたとすれば、もったいないことです。改めて読んでみましょう。
さて、先週も言いましたように、マタイ福音書の五章には、この言葉が六回(二十二節、二十八節、三十二節、三十四節、三十九節、四十四節)も紹介されております。重要であることが判っていただけたでしょう。
今日はそのうちの一つを見ていきましょう。よくご存知の有名な言葉が出てきます。
【「目には目を、歯には歯を」の意味】
徹底的に復讐する時によく引用される「目には目を、歯には歯を」という言葉ですけれども、本当は、徹底的に復讐しろ、と言う意味ではありません。
相手を殴って目を潰した人は、自分の目を潰される。歯を折った人は歯を折られる。それだけは覚悟しなければならない。けれども、被害者は加害者に、それ以上する事は許されていません。これを知っただけでも、世間の解釈が、ゆがめられていることが判ります。
さて、イエスは、もっと徹底的に解釈して「ぼくは言う」「悪人に手向かうな。右の頬を打つ者には、左の頬も向けてやれ」と言いました。
これを、「無抵抗」だと言ってばかにする人が多いです。しかし、これは無抵抗じゃありません。暴力を徹底的に否定しながら「暴力に対する抵抗」をしているんです。
聖書の上に手を置いて宣誓してきた歴代の大統領は、イエスのこの言葉を知らなかったんでしょうか。あるいは、聖書を開くことができないように上から押さえて、イエスの言葉を封印していたのかもしれません。いずれにせよ、「目には目、歯には歯」以上の復讐をしてきたように思います。
このように、キリスト教国の支配者たちのほとんどは、イエスの言葉を実践していません。むしろ、インドのガンジーや、戦後の日本が、イエスの言葉を、なんとか実践して来たように思えます。他にも、イエスの言葉を個人的に実践して来た人々がいっぱいいます。
たとえば、国の長が、復讐を誓っても、国民全体が復讐心に燃えているわけではありません。復讐するにも犠牲が伴いますから、どの国でも、お母さんたちは、自分の息子を戦場に送り出したくないと思っています。
多くの人は、実際には、暴力による報復はしない、という道を選んでいる、と言えます。
力の面で弱者である庶民は、国の内外を問わず、支配者から顔を殴られてきました。
力の弱い者は、外国だけではなくて自国の支配者層から、日々殴られながら生活している、と近頃考えるようになりました。
私的には有能であったとしても、公の仕事には無能な政治家が決めた施策に、庶民は従わされています。
最近の風邪の感染源の槍玉にあげられてる飲食産業の、感染率は五パーセントだという調査報告があるのだそうです。そんなデータやはっきりした科学的な証拠を告げないまま、営業時間を短縮させました。理由も告げずに、することは暴挙です。一度時短を飲ませたかと思うと、再度時短を要求しました。まるで、右の頬を殴られて、なんとか辛抱し終えた、と思った途端に、左の頬を殴られたようなものです。
政府の決めたことに逆らう者には罰金を課そう、としています。お金の問題じゃなくて、罪人にする、という意味ですから、もっと危機を感じなきゃダメです。
抵抗する意思をはっきり持っていても、日本の賢い庶民は、暴力で解決しようとしません。つまり、他の国々のように、暴徒になりません。
暴力は使わない。しかし見ておれよ。今に、いい政治家を作ってやる、というのが本当の底力を持っている民衆、特に子どもや弱者が食べて生きていけることを望んでいるお母さんたちの抵抗です。
このスタイルを客観的にどう見ますか。これって「右の頬を打つ者に、左の頬を向けてやれ」とおっしゃったイエスの言葉通りのようです。
【ぼくたちは】
どんなに強大な国の支配者も、長続きできませんでした。これからもそうでしょう。しかし、お母さんが消えた国はありません。
国の内外を問わず、いのちを護り支え続けた「国境なき母たち」は、いのちを、途絶えさせませんでした。
律法の基礎である十戒は、弱者を守るために伝えられてきた人類の遺産です。それらを、権力者が自分の利権を増すために使ってきた歴史が確かにあります。そんな歴史があるにもかかわらず、いやいや、そんな歴史がまかり通っているからこそ、イエスは、歴史的伝統的な解釈を無視して「しかし、ぼくは言う」「悪人に歯向かうな」「右の頬を殴る者に左の頬を向けてやれ」とおっしゃったはずです。
この言葉は、国境に関係なく、いのちを護り続けて来た「国境なき母たち」の生き方を代弁している言葉です。ですから、イエスの言葉を馬鹿にしてはなりません。真剣に取り組んで、ぼくたちの生き方にしたい言葉です。