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「いのちを保存する」20210322
「いのちを保存する」20210322
聖書 マルコ 十四章二十二節~二十六節
復活祭が近づいてきましたので、多くの教会で、イエスの十字架での死と復活について語られていることでしょう。
体の生と死は「いのち」とどのように関係しているんでしょうか。体にとって、生も死も繋がっているもので、分けて考えることができないものだと思います。
体は死にますが、いのちは無くならないんじゃないでしょうか。いのちを宿している体は、別の体にいのちを伝えるために生き、仕事が終われば、体が死ぬ(機能を停止する)ということを素直に受け入れていると思います。しかし、死にたくないと思うようになってから、人は混乱しはじめたんだと思います。しょせん、どうあがいても個体がどこまでも生き続けることなんかできません。
【食べることは生きること】
体の生と死は、食べることに繋がっています。体が生きていくためには食べなければなりません。生きること、イコール、食べることです。
ぼくたちは食べる時に「いただきます」と謙譲語(けんじょうご)で、つまり自分が謙(へりくだ)った形で表現するのは、上から物を頂戴(ちょうだい)することに繋(つな)がっているからです。「食う」ということは、いのちを宿してきた他の体を頂戴することです。しかし体が宿して来た「いのち」を直接に奪い取ることではありません。いのちを食べることはできません。この点を混同してはならないと思います。
他者のいのちを直接食べることはできないんです。もしいのちをちょくせつ頂くことができるなら、若い食材を食べれば若くなりそうなもんですが、そうじゃありません。
たくさんのいのちを一度にいただくこともできません。たとえば、「一粒の麦、もし落ちて死ななければそれは一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ十二章二十四節)とあるように、一粒一粒にいのちが宿っています。同様に、ぼくらの主食であるお米の一粒一粒も、いのちを宿しております。成長すれば、一粒が沢山の子孫を残すことができます。そんないのちを宿した体を、たくさんまとめてまとめ炊いて食べてしまうという残酷なことをしても、摂取したカロリー程度に元気になるだけです。ちいさい茶碗一杯の三千粒以上の米をたべたからと言っても、けっして三千のいのちを体に取り込めないことからわかるように、いのちを宿していた体をいただくことしかできません。しかし、悲しいかな、そのような方法でしかいのちを宿したぼくたちの体も維持できないわけです。
現代のぼくたちはパック詰めされた食材を見ているので「殺す」ことに無関係のように思っていますが、元々はいのちを宿していた体です。
この地球上でいのちを宿してきた他の生物の体を食べることでぼくたちの体を維持できるようにしたのは、三十億年以上も前からの生物の選択ですから、変えようがないでしょう。
【奪われるのではない】
とにかく、体が死んでも、いのちが死ぬわけではありません。そのからだに宿っていたいのちは行き場をなくしてしまいますけれども、他の体の中に生きているので、いのちはどこかで、いろんな個体に受け継がれています。今ある己のいのちが決して自分一人のものでないことは明らかです。
いのちを宿して来た多くの体を、いただいてきたのですから、それらの死を無駄にしないために、これからもしっかり生きていきたいものです。
さて、イエスは、死ぬことではなくて、殺されることを予感した人です。精神を研ぎ澄ませている人は、自分が狙われていることぐらい察知できます。
そんなとき、イエスは断食して祈ったでしょうか。いえいえ、イエスは弟子たちと食事なさったんです。いわゆる最後の晩餐です。
【パンがイエスである】
イエスが捉えられる夜、最後の食事の席で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と、自分を弟子たちのために差し出しました。
イエスはパンを裂いて、配りながら「これは私体である」と言い、ぶどう酒を差し出して「これは私の血である」とおっしゃいました。
ぼくはこの言葉をあまり深く考えてきませんでした。カトリック教会は、聖餐式のパンが、ささげた祈りの後にイエスの体に変わると教えましたが、プロテスタント教会では、パンは私たちのために裂かれたイエスの体を象徴していると教えます。しかし、イエスはここで、そんなことを言ってはおられないと思います。
イエスは「食え。このパンは私の体である」と言われた。まさに、「私の体を食って生きろ」とおっしゃったんです。いのちを宿している体は、次の世代のために、よろこんで自分を差し出すことに意味を見出すものです。
最後の晩餐の席で、「私を食べなさい」と言ったイエスは、何千人もの群集が飢えている(マルコ六章三十~四十四節)状況を見た時に、弟子たちに向かって「君たちが、食物を与えなさい」(マルコ六章三十七節)とおっしゃった、とマルコは書いています。時が来れば、君たちが、自分を差し出しなさい、と言いたかったんでしょう。
【日頃実践していること】
イエスは決して滅茶苦茶な要求を弟子たちにしたわけではありません。みなさんの多くが、常に実践しておられることを言葉にしただけです。
親は自分の骨身を削って用意した食材を、子どもに食べさせます。子は親の一部を「食って」成長しているんです。
赤ちゃんが飲む母乳は乳腺で変化させられた母親の血液そのものです。イエスも母親マリヤの母乳を飲むことで、母親の体の一部を食べさせてもらって成長なさいました。
親は子供にいのちを受け継がせていくために、自分を危険に晒し、汗を流し苦労して餌を集めて、子供に食わせます。母親は自分の一部を子供に分けてやり、体を張って子供を護り、自分が受け継いで来たいのちを子供に受け継がせていきます。預かり頂いたいのちを、無駄にすることなく、伝えていくために、自分を子に食わせているんです。
そんなぼくたちの体も、やがて死んで焼かれてガスと灰になり、植物に取り込まれたり、バクテリアの餌になるのでしょう。いずれにしても、他の体を食ってきた者が、今度は、他の体を支える側に回って次々にいのちを伝えて行くのです。
これが「いのちを伝える法則」です。食う者も食われる者も、この法則に則っているのですから、この循環は決して罪じゃありません。
他のいのちを受けて生き、他に伝えるために死ぬのですから、死は忌(いま)わしいことじゃありません。生きることも死ぬことも意義あることです。生が善ならば死も善です。
【いのちを繋ぐために体の死を選ぶ】
生きるためには、ぼくらも他者を食べるしかないのですから、いのちを宿してきた他者の体を粗末にしないよう、敬(うやま)いつつ、感謝して「いただき」、そして時がくれば潔(いさぎよ)く、「私を食え」と己を差し出しましょう。それがいのちある者の意義ある姿です。
そのように、体を犠牲にしても、いのちを繋いでいくことが大切です。いのちを生物全体で協力して繋いでいくために個体は死ぬんです。
一つの個体がそのまま続いていくことはありません。オスとメスで別の個体を作って、次の時代を担わせるのですから、すごい離れ業をすることを選んだものです。自分とは完全に異なる新しい個体にいのちを伝えた後に、その個体は、生活圏を新しい個体に明け渡すために死ぬことを選んだんでしょう。
生物にとって、生まれることと死ぬこと、形を変えて生まれることが、いのちを継続することです。一個の個体が生き続けることを目的としていないので、個体が生き続けることはできません。
【イエスも他者に委ねた】
死が近いことを知ったイエスは、自分を食わせることによって、弟子たちに後を任せようとしたんでしょう。
イエスと言えども、自分の「いのち」を食べさせることはできませんから、自分の福音の生き様を託(たく)したかったんでしょう。
しかし、弟子たちが、イエスの意思と福音の生き様を受け継いだとは思えません。その代わりに、公的な教会から排除されていた女たちが、イエスの福音を受け継いだんでしょう。
イエスが生きた福音の生き様は、教会組織の中では目立たなかったとしても、女たちによって伝えられたはずです。ぼくたちがイエスの生き様に目を向けることができるようになったのは、イエスの生き様を伝え続けた担(にな)い手がいからに違いありません。
いのちを宿した体は、数十億年かけて勃興と衰退と変化を繰り返しながら現代までいのちを伝えてきました。体はこれからも変化しながら生きていくでしょう。いのちが生き続けるためには、環境に合う体への変化が必要なのです。
イエスが伝えた福音も、形を変えて生き続けてきました。
とにかく、わたしの肉を食いわたしの血を飲め、と潔(いさぎよ)く死を選んだイエスの生き様に魅せられます。ぼくたちもイエスのような生き様を、自分の生き様にしたいです。そうすれば、使命を終えた古い体は、迷うことなく死んでいけると思うからです。
【ぼくたちは】
ぼくたちは、まるで、螺旋状(らせんじょう)のDNAの中に存在する一つの塩基のようなものかもしれません。たとえそうであったとしても、その一つがそこにあることによって、いのち全体を支えているのであれば、本人が気づかなくても大きい意義があるんです。そのことを喜んで、ぼくたちは残された時を大切に生きていけばいいだけだと思います。
生も死も善であり、長く大きないのちの一部分を一時でも担っているのであれば、それだけで意義深い存在なのです。このようにして「いのち」は続いていきます。それを「永遠のいのち」と言うんでしょう。
永遠と言いましたけれども、実際にはいつまで続くか判りません。とにかくぼくたちは、置かれた立場で、自分のできることをするだけです。
福音が途切れる心配もあったでしょう。しかし、委ねるしか方法がなかったイエスは、逃げ出さずに、わたしを食べて生きろ、と弟子たちに言いました。
ぼくたちも、自分が出来ることをし終えたら、先を心配せずに、後継者に自分を食べさせて、潔(いさぎよ)く死にましょう。いのちを保存するために、いのちの受け皿が絶え間なく変わったように、イエスの福音を保存するために、新しい受け皿も代わって登場するに違いありません。