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「口・腹・便所」20210620

「口・腹・便所」20210620

「口・腹・便所」20210620

聖書 マルコ福音書 七章一節〜二十三節

 

 話を大きく膨らませたり、誰が言った言葉か判らないような話を、有名な専門家や権威ある者言葉であるかのように伝えたりする人が多くいます。むかしはそんな情報を多くの聴衆に伝えることはできませんでした。しかし、インターネットの発展と共に、さまざまな情報が数十万人に一瞬にして公開可能になりました。

 真実に近い情報がなかなか伝わらないのに反して、いかがわしい情報がこれほどまでに多くの人に届けられるのは忌まわしいことです。

 「なんじゃこれ」と思うような動画を視聴している人が何十万人もいるのに、ぼくの説教動画の視聴者は数十人です。なんと寂しいことでしょう。とは言え、ダイレクトに話を聴いてくださるみなさまが数人いて下さること加えて数十人見てくださることを考えると、動画配信して正解だったと思っています。

 これからも、真実に近いことを考えて語っていきますので、よろしくお支え願います。

 偽物の情報が多いと話しましたけれども、近年始まったことではありません。有史以前から一握(ひとにぎ)りの詐欺師が多くの人を騙してきたのだと思います。

 そして、多くのキリスト教徒が神の言葉だと信じて尊重してきた聖書の中にも、他人の名前を騙(かた)って書かれた偽書が存在しておりますし、改ざんされた物語があることも事実です。なによりも大きな問題は、多くの文章が誰も知らないはずの神の名を用いて、神の言葉だとして人が書き残していることです。このようなことを考えれば、嘘(うそ)の塊(かたまり)を多くの人が、正しい言葉だと信じ込まされてきたことは確かです。そういう誤り多きことをしてきた事実を認めつつ、今日も聖書を読んでいきま。なぜそんなことをするのかと言えばこの世に実在したイエスに関する物語の中には、事実(真実)も残されていると思うからです。誰も見たことも聞いたこともない、存在の証拠さえない神の物語と、人間イエスの物語はまったく質が違います。

 川底の砂を濾(こ)しながら砂金を見つけるように、多くの言葉を篩(ふるい)にかけて、砂金のようなイエスの思いを見つけ出したいと思います。

 

【物語は編集されている

 さて今日読んでいただいた新共同訳聖書の小見出しは「昔の人の言い伝え」とありました同じ箇所を岩波の聖書で読みますと「穢(けが)れに関する論争」という小見出しが付けられております

 新共同訳聖書の「昔の人の言い伝え」という小見出しはあまりにも漠然としていまして、どんな主題が潜んでいるのか皆目検討がつきませんので良い小見出しとはいえません。岩波訳では「穢(けが)れ」という言葉が入っておりますから、論点を具体的に示ているぶん、いくらかましであるように思いますが、主題はズレていると思いますので、どちらも到底(とうてい)優れたものとは言えません。

 けっこう長い文章なので一つの小見出しでは表現しきれないから幾つかの部分に分けて考えた方がよいとぼくは思います。

 この物語には言いたいことを幾つも組み入れながら話が展開させられているようす。まるで図柄を表現するために幾つかの色の糸を折り込みながら編みあげられた布のようです。つまり、読んで字のごとく編集された物語だと言ってよいでしょう。

 この一連の物語には、当時の事情を知らない読者のために説明文が挿入されています。このことから、ユダヤ教の宗教的伝統を知らない読者に向けて書かれたものだと判ります

 

【きっかけはイエスの弟子たち】

 物語のきっかけには、弟子たちが登場します。

 イエスの弟子たちが不浄な手でパンを食べているのを見つけたファリサイ人と律法学者が、弟子たちの責任者としてのイエスに、この不始末を問いただしたのが事件の発端(ほったん)です。

 律法学者たちがわざわざエルサレムから来ているという記述に興味を覚えました。というのは、イエスの事件から二十年ほど後の出来事に関する記述ではありますけれども、パウロの論的たちがエルサレムから来ているという事実があるからです。マルコが福音書を書いたのは、パウロからさらに二十年ほど後ですけれども、パウロが置かれていた状況を思い浮かべていた可能性もあるように感じました。

 話を戻しましょう。ファリサイ人や律法学者たちの追求に応えるために、イエスが、イザヤ書の一節やモーセ律法の一部を取り上げて反論なさったように描かれておりますが、今日はこれらについて考えません、なぜならば、これらに目が引かれてしまうと、イエスの本来の主張を見逃してしまうかです

 今日の物語の起承転結を押さえるためには、全体的に捉えて、結論が何か把握(はあく)しておかなければならないと思います。

 いざ聖書を読むとなると、難しく考えなければならないという錯覚に陥る方が多いようです。聖書は難しいいうのは偏見です。もっと素直に聖書を読んだ方がいいと思います。と言いましても、書かれたそのままを信じ込めということではありません。素直に読んでいておかしいなあと思うところがあれば、それはおかしいんじゃないか、と素直に感じたままにしておいていいということです。

 イエスの考え方は、多くの人が考えるよりも素直です。イエスは謎を残すような受け答えをなさる、と教えられることが多かったのですが、それは今日の箇所のように、編集文が挿入されている状況が作り出しているからだと思います。

 

イエスは伝統に影響されていない

 さて本編に入りましょう。ファリサイ人や律法学者は「不浄の手」というユダヤ教の概念に基づいてイエスに質問したのですが、イエスはこの概念について、直接的なことは何も語っていません。食べ方の作法だけでなく、食べてもいい食材や、食べてはならない食材など、食物の種類についてもイエスは何も語っていません。どんな作法にせよ、どんな食材にせよ、ただ口から入った食物は腹を通って便所に出ていくだけだ」(同 十九節)とイエスは言っただけです。これがイエスが言った大切な言葉です。

 途中にある説明のうんぬんを外して素直に考えれば話は簡単に理解できるでしょう

 不浄な手で食事してはならない、などという伝統的な教えにイエスは影響されていないということです。これだけ判れば十分です。

 

蛇足に目を奪われてはならない

 この物語を通じて、食物の種類について蘊蓄(うんちく)を語る必要はありません。なぜなら「どんな食物も食べた人が清める」(同 十九節)というのは別の状況でイエスが語った言葉であると思えるからです。

 さらに「外から入って人を穢(けが)す物は何もない」という言葉まではいいとしても、「人から出てくるものが人を穢(けが)す」(同 十五節)という言葉は、論理の飛躍で

 「外から」という言葉に触発されて「中から」という言葉を連想し「人からでてくるもの」という論理へと発展させて、もともとあったこの物語の中核に付け加えた人がいたのだろう、とぼくは想像しています。

 すなわち、十八節以下に「人から出てくるものこそ人を穢す。人の心から悪い思いが出てくる。淫行(いんこう)盗み、殺人、姦淫(かんいん)、貪欲、悪意、詐欺(さぎ)、好色、ねたみ、ののしり、傲慢(ごうまん)、無分別など。これらの悪が中から出てきて人を穢すと書かれています。道徳的な基準に基づくこれらの言葉をイエスが語ったとはとても思えません。

 後の時代の教会の説教者か誰かが、いい説教になると思って付け加えたのでしょうが、はっきり言って蛇足です。

 後に道徳的な方向へと流れていった教会が人の罪を指摘するために喜んで使いそうな言葉が並べ立てられていることから、後の時代に加筆されたものだ考えれば、最も辻褄が合います

 すなわち、人の中から出てくるものが人を穢すという罪の概念は、イエスの思想ではなくて、後の教会の発想です。

 

【人の中から悪が出てくるなどと考えない】

 もしも、イエス自身にこのような罪概念があったならば、当時の社会が罪人と認定した人に対して「あなたの罪は赦された」などと宣言することはできなかったに違いありません。

 ここに列挙されている道徳的な悪に満たされながら自らその状況と罪の結果与えられるとされている審判に怯えている人々を、イエスはそのままで、受け入れなさいました。回心や悔い改めを要求することなく、そのままで受け入れたイエスは、人の中から出てくる悪が人を穢す、などと決して言わなかった、とぼくは確信しています。だから、悪のリストに列挙されている事柄に思い当たることが自分の生活の中にあったとしても、そんなことで悩む必要はありません。周りの人や教会があなたを責めるようなことがあったとしても、イエスはそんなことであなたを責めません。

 

【ぼくたちは】

 きたなくよごれたままの手で食べていいとか、なんでも食べていいなどとイエスは言っているのではありません。

 食材の種類や食の作法について蘊蓄(うんちく)を垂れる宗教がたくさんありますけれども食べ物は口から入って腹を通って便所に出ていくだけだとイエスはおっしゃいました。この事実に宗教的伝統や律法は関係ありません。

 人間の中から悪が出てくるという教えも言いがかりです。イエスがそんな教えをなさるはずありません。

 食事前に手を洗うことぐらいぼくたちにとっては当たり前のことです。ぼくたちはただ自分と隣人の健康に気を配って食べる程度のことができればそれで十分で

 たとえ、伝統や宗教が倫理的な生活を求めたとしても、それらがイエスの伝えた福音の中心を阻害するようなことであれば、そんな要求に目を引かれてなりません。

 福音の中心から離れた余計な教えに流されないように注意しましょう。

 あなたは、自分のままで受け入れられ愛されているおっしゃったイエスから離れないでいてください。そして、イエスがお伝えになった事実の福音に守られて、堂々と自分の生活を建て上げいけますよう願っております。

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