説教の題名を押して下さい

「権利者を許さない」20230402

C774AF15-1C1E-4CB4-B58D-3771894AA8D3.jpeg

「利権者を許さない」20230406

聖書 マルコ  節〜十一

十五節〜十九節

 

 来週は復活祭です。復活の一週間前にイエスは借りた子ロバに乗ってエルサレムに入り、神殿の境内などを視察して、夕方にはベタニア村に帰ったのでした。(マルコ十一章十一節)

 イエスがエルサレムの城門に向かう道では「ホサナ(主よお救いください)」と叫んでイエスの入城を喜んだことになっています。またマタイ福音書では群衆が、このように叫んでイエスを迎えたことになっております。

 イエスのエルサレム入城を大々的に描く映画が多いですけれども、そんなに大掛かりなものでなかったとぼくは考えております。

 なぜならば、「嘆きの家」という意味のベタニア村で宿泊していたイエスとその一行は、ライ病人を隔離するための村を出発し、近所の村でロバの子を借りて、それに乗ってエルサレムに昇った書かれているからです。

 馬ならば立派な戦争道具ですけれども、平和の象徴だとかいうロバの、しかも子ロバに乗って、イエスは平和の王としてエルサレムに入城なさったのだとわれております。でも正直な感想を言わせてもらえば、カッコ悪いです。

 イエスはわざわざ格好悪い姿を見せたのかもしれませんが、本当に貧しかったと思います。

 エルサレムの住民たちは歓喜に湧いてイエスを迎え入れたと教会では教えられてきましたけれども、そんなはずありません。伝染病患者を隔離していたベタニア村から、借り物のロバの子に乗って来たイエスを喜んで迎え入れたりしないと思うのは、ぼくだけではないでしょう。

 みすぼらしい行進に注目した人は少なかったはずだとぼくは考えています。

 イエスは、この日からずっとエルサレムで活動していたのではありません。なんと、神殿の境内などを見回っただけでベタニア村に帰ったのです。この日は、下見しただけのようです。

 

暴力的なイエス

 翌日に、イエスは神殿で商売している人々に追い出しをかけたり、両替人の台などをひっくり返したのだそうです。

 ここで見るイエスは非暴力ではありません。それどころか、非常に暴力的す。

 いわゆる宮清めと呼ばれる今日の記事で、暴力を振るったイエスを否定的に取り上げた説教を聞いた覚えがありません。神殿を商売の場にすることを許さないため、神殿を清めるためならば、暴力も許されるというのでしょうか。

 しかし、後に書かれている記事でも判るように、この日のイエスの暴力行為によって、祭司長、律法学者長老たちの怒りは最高潮に達したようです。なぜなら、イエスの暴力行為は、神殿の利権者の経済機構を全否定し、破壊する行為だったからです

 

【神殿での決まり事】

 神殿で献げる動物は汚れや傷のないものでなければならなかったのですから、献げものをしなきゃならないと教えられると、神殿の前庭でで売られている割高の動物を買わなきゃならなかったのです。お金を捧げる時には神殿で有効なお金で献金しなきゃなりませんでした。

 カエサルの顔が刻印されている硬貨を神殿に献げてはならなかったのです。だから両替人がいたのです。

 そのよう規定をたくさん作れば、仕事を増やすことができます。そうやって、信仰心を煽(あお)る神殿祭儀を利用して、金を稼いでい人たちがいたのです。今の世でもそうであるように、人通りが多くて立地条件の良い場所で売するには、高い場所代が必要です。神殿の前庭で献げ物を売るなんて、そんな美味しい話しは誰にでも許されるわけありません

 場所代だけでなく、相当のお届け物をしなければならなかったでしょう。そんなふうにして、神殿には利権が絡んでいわけです。

 今でも同じで。東京五輪なんて、スポーツによる平和の祭典などといえば、多くの人の賛同をえることができます。そのように人心を煽っておいて、そこに金の亡者たちが群がるわけです。

 

捧げ物を使い回す

 前にも話したことありますが、タイのお寺に行った時に、大きい仏像に皆さんが花を捧げます。仏様の前の石畳が少しあって、反対側に花屋さんがあるのです。最高の立地条件ですから、花屋さんはリッチでしょう。

 水の入ったバケツに入れてある花束を机の上に並べますから、そこから良さそうなのを買って、仏像の前まで持って行って、水の入ったバケツに入れてから手を合わせてお祈りするのです。

 しばらくしたら仏像の前は、置かれたいっぱいになりますが、花屋の花がなくなってきますよね。そうすると、花屋は、仏像の前の花をバケツごとごっそり持って花屋の方に運んだんであります。そして新たに来る参拝者に花束を売るのであります。隠れてこそこそしません。どうどうとやっていました。えぐいですね。

 利権があればそういうことができるのです。しかし利権まみれの行いは宗教やスポーツ精神を本当に馬鹿にしています。

 利権者を太らせるために宗教心を利用するなんて、許せませんよね。

 でもね、どこのどんな宗教においても、企業や団体や国、国連にも利権者がいるわけです。人間の性(さが・生まれつき持っている性格)なんでしょう。だからといってユダヤ教の指導者たちや神殿祭儀を司っていた人々を、イエスは許せなかったのでしょう。

 人間の考え方の根本、精神性にまで深く影響する宗教指導する人々がまずは自分の利権を大切にしていたのでは、まともな人間の生き方や判断力を伝えることなどできません。

 利権者は自分を守るために適当なことを言います。他人に苦行させることをなんとも思いません。かつては、イエスも世の中の生活を捨てて荒れ野に籠ったのです。そういう生活を指導されたからでしょう。しかしそんなものではイエスは何も得ることができなかったのです。あの青春を返してくれてなもんです。

 大きく立派なのもにこびる事大主義者たちは何者にも反論を許さない「神」を持ち出して、神への仕えかたを教え、それによって自分に仕えさせるのです自分は神になど仕えないのです。「神」のを利用して自分に都合よく立ち回る利権者をイエスは許せなかったのでしょう

 

【ぼくたちは】

 神から与えられたと教えられている律法によって、多くの人が差別され、人間扱いされていない現状に、イエスは我慢できなかったから、病人を隔離するベタニア村からエルサレム神殿の前まで村人を引き連れて行進したのでしょう。ようするに、これは世の中の不正に対するデモ行進です。そんなイエス一行を喜んで迎え入れた人がいたとすれば、宗教利権者たちによって差別されていた人たちだけです。利権者たちはイエスを殺そうとしていたのです。

 このような利己的な利権者に成れる人はここにはいませんが、次週は選挙日です。自分の利権を追求するような人を選ばない。利権追求を許さない。それは、ぼくたちにしかできないことです。そうであれば、イエスのように、自分の思いを表明する人になりましょう。

1
Today's Schedule
2024.05.03 Friday