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「イエスは具体的に関わった」20191027

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「イエスは具体的に関わった」2019年10月27日

聖書 ルカ  十八二十三

 

 十月の第四日曜日になってしまいました。当たり前ですけれども、次週は十一月です。この頃になるとクリスマスシーズンが近くなって来た、ということもあって気ぜわしくなるので嫌です。昔は嬉しかったんですけれども、今は正直言って嫌いです。

 クリスマスって言わずにイエスの誕生祭と言いたいんですが、んな言い方では雰囲気がないからでしょう。納得してくれる人は少ないですし、もちろん世間に通じないでしょう。意味が判らいままでもなぜかカタカナの方が、喜ばれるようです。んなことに抗(あらが)うのも、歳のせいか、面倒になってきました。中途半端だなあと思いますけれども、どうにでも勝手にしてくれって感じです。

 そんな事を感じながらも、新しい日曜日はやってきます。さて、今週はどんな説教を作ろうか、と悩んだ末に、イエスは何をなさりたかったんだろうか、という事を調べるために、共観福音書と呼ばれているマタイ、マルコ、ルカ福音書を見比べながら読んでみました。

 聴いた人が慰められる説教をしたいと思って悩みます。福音書以外の部分も覗いてみたんですが、慰められる言葉を見つけることができなくて、やっぱり直接にイエスが登場する福音書に戻ってきちゃいました。

 

【イエスは個人的に関わった】

 今日のために選んで読んでもらった箇所は、バプテスト・ヨハネの弟子が、ヨハネからの質問を持ってイエスのもとを訪ねてきた場面です。「来るべき方はあなたですか」という質問をイエスに投げかけております。

 イエスは「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病の人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げられている。わたしにつまずかない人は幸いである。」とお応えになりました。

 イエスがなさった事を見れば、イエスこそメシアだと判るだろう、と受け取れるような表現です。けれどもイエスの言葉素直に読めば、イエスは、人々の生活に直接関係することをなさっただけだ判ります。イエスは、個人個人の必要に応えるような活動をなさったのであって、大き社会改革を起こそうとしたんじゃないことが判ります。

 先々週の説教では、ユダヤ教の本拠地エルサレム神殿の大祭司から「お前はメシアか」と問われ、ローマ総督ピラトから「お前はユダヤ人の王か」と尋ねられたことを紹介しました。その際に、「それはあなたが言っていることだ」と答えて、イエスは人々からの評価を決して受け入れなかった事実を示しました。人々から判断されることを拒否して、「私は私だ」という姿勢をイエスはいたんだと思います。このことからも、イエスは、社会構造全体に影響を及ぼす存在になろうとなさっていたわけじゃないことは明らかです

 民族を危機から救うために神から遣わされるメシア(救い主、キリスト)や民族の王のような存在じゃなくて、イエスは個人的な要求に応える活動に力を注いでおられんです。イエスのき方は、個人的な人間関係に深く影響を及ぼすものであったと言えます。

 

【イエスの生き方は教義と合わない】

 イエスの活動はこのイエスの言葉に残されていまそうだとすれば、イエスは、今のキリスト教会が大切にしているキリスト教教義に見合う活動をなさっていなかった、ということです。

 要するに、すべての人の神に対する罪を一身に背負って、犠牲の捧げ物になってやるという意図をイエスは持っていませんでした。

 キリスト教の教義ではイエス罪の赦しを得させるための犠牲であった教えます。けれども、それは、イエスが殺害されたこと意味づけるために、後付けで生み出された論理だとしか考えられません。イエスの殺害後にしか出てこない論理です

 すなわち、自分贖罪の犠牲になるという考え生前のイエス持っていませんでした。こういう内容をしっかり掴んでおかなければ、ぼくたちは何をしていいのか判らなくなりますので、しっかりと心に留めておいてください

 

【二つの方法のどちらを選ぶか】

 福音を伝えるという言葉を具体化する時、まったく異なった二つの方向がある、と思います。

 一つは、イエスすべての人間の罪を被って、身代わりの犠牲として死んでくださったキリストである、というキリスト教教義を信じさせるために働かなければならない、という方向性。もう一つは、生前のイエスがなさった活動によって慰められ力づけられぼくたちが、今度は、他者を慰めるような生き方ができますように、という方向性です。この二つは、相反するものです

 

【教会の福音は、新しい枷(かせ)となる】

 イエスを救い主キリスト信じて救われ永遠の命を得させるために宣教するのだ、と思う人は、それをなさればよろしいでしょう。その福音は、古い価値観や罪意識から人々を解放するとは思います。ただし、キリスト教教義を受け入れるか否か、という分裂を招きますし、教会の教えに聞き従わなければならない、という新たな枷(かせ)への囚われを生み出します。

 どんな時代でも、人々は悩んでいす。ほとんどの人の悩みに共通しているのは、自分を認められなくて苦しんでいることじゃないか、と思います。

 そのままを認められないために苦しんでいる人がいかに多いことでしょうか。自分の至らなさを受け入れてくれる誰を探して、様々な宗教や組織にすがる人は多いと思います。しかし、そのほとんどは、最初の内は甘い顔をして受け入れてくれても、後に、仕えることを要求してくるものばかりです。あなたの悩みを解決するために支払われた犠牲の代価を、後で要求してくるのが組織です。

 あなたの心の悩みを解決するために、一括して代価を支払ってくれた組織に、あなたがローンの支払いを迫られるようなもんです。支払いが済めば、さらに大きな恵みを買うようにと迫ってくるかもしれません。代価を要求する宗教も組織も、新たな囚われを生むだけです。

 

【前よりも悪い状態になる

 面白い、物語を紹介しましょう。

「人から出て行った穢れた霊は、休む場所を探して砂漠をうろつくが見つからなかったので、出てきた家に戻る。戻ってみると、そこは掃除され整理されていた。そこで自分より悪い七つの霊を連れてきて、入り込んで住み着く。するとその人の状態は前よりも悪くなる」(ルカ十一章二十四節〜二十六節)という訳の判らない物語があります。

 囚われから一時的に開放されても、新たなものに囚われたら、前よりも更にひどい状態になる。そんな恐れが非常に高いんです。

 それと同じように、キリスト教の福音によって、文字で書かれた律法から開放されても、もっと込み入った心の律法に囚われる人多いと思います。

 

【伝えられないのは確信がないから】

 神様に仕えて喜んでもらえる生活を続けていれば、死んだ時に天国に行けて、そこで永遠に楽しい生活ができるようになるんだ、という神話に捕らえられている時代は終わりました。昔から刷り込まれた神話から離れられない人もいますけれども、日本人に限って言えば、多くの人はそのような神話を信じ切ることができない状態です。

 言い伝えられたことに必死にしがみつこうとしている人もいますけれども、そんな人でも、本当のところは半信半疑だろう、と思います。そうでなければ、中途半端な生活をしないで、徹底的に神や仏に仕えるような生活をしているはずです。どうせどうなるかわからない、と疑っているから、自分の考えをはっきり表明することもできないんだと思います。

 日本では、津波や地震や大雨という災害が続いております。例えば、そんな災害が近付いているという場面設定を考えてください。その時に、助かる可能性が一番高い、と思える場所をあなたが知っていたならば、大切な家族を、一刻も早く安全な場所に移動させようとするはずです。友人や近所の人にも、躊躇なく伝えると思います。

 たとえ死んでも、その後に天国での永遠の命を保証される方法を知っているなら、きっとその情報を無我夢中で知らせることでしょう。しかし、現実にそのような姿勢を示す人ほとんどいないのは、他の人に理解されないことを知っているからでしょう。たとえ家族でも、自分が得た情報を信じる人はいないだろう、とほとんど諦めているんじゃないでしょうか。確信があっても伝えない、というのであればあまりにも冷たい感じですけれども、それほどの確信もないから伝え得ない、というのが、本音だと思います。

 かつては、無理やり社会権力親の権威で、宗教の教えに従わせられた人もいるでしょう。しかし、現代の日本人は、もっと個人的な考え方が重要視されます。確信のない福音で慰められる人はいません

 

【立ちつくす人が必要なこと】

 激しい災害に遭ってすべてを失くした人は、呆然と立ちつくすだけじゃなく、生き残った自分をさえ攻めるようになります。決してその人の責任ではないにも関わらずです。

 立ち尽くすしかない人が必要としているのは何も言わずに、ただ抱きしめられることです。生きていることを確認させられ、慰められることです

 どんな人も、そのままで受け止められること必要としています。そのままの自分が、受け入れられ、悲しみや苦しみが慰められることを人は求めているんだと思います。

 出来が悪くても、病気でも、障害があっても、災害に遭っても、それらのことを個人的な罪と結びつけず、その人をそのまま認め、受け入れて、人を力づけるように働く、それがイエスの福音でした。その際に、イエスは何も要求なさいませんでした。

ですから、多くの要求を伴う宗教と、イエスが伝えた福音(すべての囚われから解放する知恵の情報)はまったく異なっています。

 宗教や社会常識によって、「自分は罪人である」と思わされていた人々を、その囚われから解放するためにイエスは活動なさいました。

 

【ぼくたちは

 すなわち、慰められなければならない多くの人が必要としているのはイエスがお伝えになった福音です。だから多くの人々に聴いてもらいたい福音は、イエスご自身がお伝えになった福音です。

 あなたはダメだ、あなたは罪人だ、と教える宗教その他の組織にも囚われないで、すべての囚われから解放するイエスの福音を聴きましょう。個々人が様々な囚われから解放されるために必要な根本的な知恵はイエスの福音の中にはっきり示されていますから、ぼくたちはその福音を伝えましょう。

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