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「あなたの自由を取り戻しましょう」20191020
「あなたの自由を取り戻しましょう」2019年10月20日
聖書 マルコ 十四章六十節~六十二節
十五章一節〜二節
何にも囚われないで生活するために必要なことは、「あなたはそのままで愛されている」という確かな知恵(情報、イエスの福音)を知ることだ、と先々週も先週もお伝えしました。
イエスが伝えた福音は、努力する必要もなく、誰でも受け入れることができるほど簡単なことなんだよ、と伝えても、あまりにも簡単すぎる、という理由で受け入れない人もいます。人間の性(さが)でしょうか。困ったもんです。
【謙遜でなく高慢が多い】
代価を支払わずに恵みを受けることに抵抗を感じる人は、謙遜しているつもりかもしれませんが、努力しないで自分が受け入れられることを許せない、という傲慢な人だと思います。考えてみれば、命さえ、努力して得たもんじゃありません。誰の命も代価で買い得たもんじゃありません。誰もが命を授けられて産まれます。命はしばらくの期間預けられているだけで、自分のもんじゃありませんが、生きている間は、かなり自由に生活することができます。いろんな束縛の中ではありますが、プランターの花よりも自由に考えたり移動できる人間は、かなりの自由を持っています。この自由な命は、ぼくらが頑張って手に入れたんじゃありません。代価を払わずに、ただ与えられた命です。
自由な命を与えられて生きている間に、与えられた自由の代価を返さなければならない、と教える人もいますが、そんな必要はありませんし、元来、誰にもそんなことはできません。
出来ることは、授かったいのちを大切にすることです。そして、自分も与えられたんですから、続いて来る人に、代価を求めずに与えて行くだけでいいと思います。
今日は、その大切な個人の自由な命が、常に狙われている、という注意警報を出しておきましょう。自由な命を奪われないように、すぐに防御してください。
【自由な命が商売にされる】
現代社会は、いのちを、代価と報酬という商売の土俵に、載せることを思いつきました。個人の自由を売り買いする商売が生み出されて以降、近代における自由の売買は目覚ましく発展し、そこに引きずり込まれると、知らないうちに自由が奪われます。現代社会は激しく歪められ、命の自由の格差が大きくなるばかりです。だから、与えられた自由を奪われないために、防御することが必要です。
お前の自由の代価をおれに払わせるなよ、という意味で「自由には責任が伴う」と言う人が多いですが、そうではなくて、「自由に伴う責任」とは、「自分の自由を自分で守ること」です。
【自由泥棒】
ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデの「モモ」には、時間泥棒が登場します。人々は時間貯蓄銀行に自分の時間を預けるために、時間を節約して、せかせかした生活をするようになり、人生を楽しむことを忘れてしまいます。
何もしなくても、時間は過ぎていきます。それならば、自由な一時間を買ってくれる人に売った方が良さそうに感じます。代価は、銀行に振り込まれて、銀行預金が増えることを喜びます。
そんな現代社会の甘い言葉に誘われて、自分の自由な時間を売り始めた人が、大都会に集まります。人が密集している方が、時間が節約できて売り買いを円滑に進めることができるからでしょう。
一日の内の八時間を売って、生活するための代価をもらうことは、サラリーマンの標準的指標になっているようです。
自分の時間を使って、誰かのために働いて、賃金という代価に交換してもらう。衣食住を整えて生活していくためにはしょうがない、と誰もが納得しているようです。それが近代社会の常識のようですが、古代には無かった仕組みですから、摂理(せつり・自然の理)じゃなくて、社会の発展途上で人間が作り出したシステムです。
巧妙に作られたシムテムに馴らされた人々は、時間を売っている、という感覚さえ持てないようになっています。それだけではなくて、事態はもっと深刻です。時間を売ることに付随して、もっと重大なことが進行しているからです。
時間だけを売っているように思っているかもしれませんが、ただ単に時間だけを切り離して売ることは出来ないんです。なぜなら、切り売りできる時間は、世界中にほぼ均一に流れている時間じゃなくて、あなたという個人の自由な時間だからです。
アホくさい言葉遊びに聞こえるでしょうけれども、時間と共に、「あなた個人」の「あなたの自由」を売っているのが真実です。
あなたは、あなたの時間だけじゃなくて、無自覚の内に、あなたの自由もくっ付けて売っています。気付いた時には、自由も少なくなっています。現代病の多くは自分の自由を失くしてしまっていることに起因している、と思います。ですから、自分を失わないために、自分の時間に自分の自由までセット販売しないように注意しなければなりません。
【時間は取り戻せないが自由は取り戻せる】
大切なことを言います。売ってしまった時間を取り戻すことはできません。しかし、知らずに失くした自由や奪われた自由は、取り戻せます。
イエスご自身も、若い頃には、時間と自由をセットで売っていた、というか、騙(だま)されて奪われていた、と言った方がいいでょう。
お陰で、イエスは、詐欺の手口を暴(あば)きました。その知恵の情報を、自分の福音として確立してからは、イエスは、どんな時にも自分を失くさずに生きた人であったと思います。
【イエスはペトロの告白を拒絶した】
ペトロから「あなたはメシアです」と告白された時に、ペトロの告白を制止した、という話を前にお伝えしました。「あなたはメシアです」と告白されることをイエスは拒絶したんだ、とぼくは理解しました。けれども、苦難を受けるべき「時」は来ていないからまだ言うなという意味だ、という反論を受けました。マルコより後の福音書に、そのような解釈があることを認めますが、マルコのイエスは、自分をメシアだとは考えていなかった、としか考えられません。
人々から何を期待されたにせよ、イエスは自分を大切にした方であると思います。
【イエスは社会の押し付けを拒絶した】
今日の箇所では、ユダヤ教の大祭司から「お前は、ほむべき方の子、メシアなのか」と問われています。イエスの答えが「そうです」と翻訳されていますが、しっくりきません。岩波の聖書では「私〔がそれ〕だ」と翻訳されています。「私は私だ」とぼくは解釈したいところです。と言いますのも、マタイやルカは、大祭司への返答と、ピラトへの返答を、同じ言葉にしています。
マタイやルカでさえ、「それは、あなたが言っていることだ」と、イエスに言わせているのは愉快です。「お前はメシア(キリスト)か」「お前はユダヤ人の王か」という問いに対して、「それは、君の言葉だろう」とイエスは言い返しております。
「イスラエルが求めているメシア」や「ローマが考えているユダヤ人の王」じゃなくて、「私は私以外の何者でもない」とイエスは自己主張したように思います。
福音書のイエスを見れば判る通り、イエスは、人類すべての罪を背負って、身代わりの犠牲になってやる、というような意思で活動をさった訳ではなく、自分自身が気付いた福音(真実の裏情報、知恵)をお伝えになっただけだということは明白です。人々から期待されても、嘲笑を受けても、他人の判断に関係なく、イエスは自由な人間として自分にできることをなさっただけです。
人々が触れることさえ拒んだ病人や障害者や嫌われた職業の人々、すなわち当時、罪人と呼ばれていた人々の身体にも心にも触れて、罪人と呼ばれてきた人々を、イエスは、歪められた自己理解から解放するために尽力なさっただけです。
イエスは、当時の社会から押し付けられた罪人というレッテルを、自ら払いのけました。自由を取り戻したイエスは、人々を罪人にするロジック(論理)の嘘を見破り、本当の情報(知恵、福音)を伝えて、人々を罪から解放なさったのだと思います。そうだとすれば、イエスが「メシア」という称号を拒絶したことも納得できるはずです。
【メシア信仰は教会が作った】
イエスにメシアという称号を与えたのは弟子たちです。ペトロが代表している弟子たちが、メシアであると確信したイエスが殺されたことを、意味づけて納得するために、イエスを人の罪を背負った生贄(いけにえ)に仕立て上げたんでしょう。極めてユダヤ的な贖罪思想を取り入れたのは弟子たちがユダヤ人だったからです。後に、異邦人に受け入れられるようになったので、全人類の罪を背負う神の子羊メシアという称号に格上げしたんでしょう。何れにせよ、神に対する罪という負債が解消されるためには、犠牲という代価が支払われなければならないという考え方は、ユダヤ教と商売の域を出ていません。
そもそも、神が全人類を罪人だと定めた、という情報を伝えた者が、人間であることに、神話の論理に破れ(嘘)があることは確かです。
初めのうち、神の意志に沿おうとして徹底的に精進したイエスは、宗教の教えに人間の嘘を見抜き、自由を取り戻したんでしょう。イエスは、宗教に囚われていた時間を取り戻すことはできませんでしたが、人間としての自由を取り戻したんでしょう。その喜びを、人々に伝えました。
【ぼくたちは】
宗教が教える福音は、満たすことができないほどの神の要求を、人が伝えます。しかし、イエスの福音(嘘を暴いた真実の情報、知恵)は、決して難しくありません。イエスの知恵に目覚めれば、誰でも自分の自由を取り戻すことができます。
だから、ぼくたちは、宗教を捨てて、イエスの福音に目覚めましょう。