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「パンを分けることが祈り」20210214
「パンを分けることが祈り」20210214
聖書 ルカ十一章一節~四節
ルカの並行箇所マタイ六章七節~十三節は先週の続きです。今日は二〇〇五年五月二十二日にした説教「主の祈り」を土台にしています。あの頃は五十二歳、まだまだ力が溢れていました。
あれから十六年。考え方も随分変わったので、昔の言葉使いのまま、昔の説教を残しておきたくなくなったので、書き直しました。
【祈れなくてもいい】
ぼくは通算で二十四年近く牧師をしています。しかし「祈り」が苦手です。というか好きじゃありません。牧師になる前から苦手でした。
二十歳から二十三歳まで、全寮制の東京基督教短期大学にいた頃は、毎朝六時半から七時までは早天祈祷の時間となっており、曜日によって、全体で祈る日、個人的に祈る日、教派ごとに集まって祈る日などと定められていました。個人的に祈る日は、三十分も何を祈ればいいのか分からずに時間をもてあましました。
宵(よい)っ張りでしたので、朝起きが一番いやでしたが、そればかりではなくて、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ六章八節)というイエスのお言葉があるにも関わらず、願い事ばかりを並べたてる祈りに、違和感を覚えていたのも事実です。
【弟子たちは祈りを教えてもらった】
ファリサイ人や、律法学者たちは、美辞麗句を使った、格好のいい、長い祈りを、まるで見せびらかすようにしていたんでしょう。
前にも言いましたように今も偉い先生方は、カッコいい祈りをなさいます。先週のイエスの言葉によれば、人から十分に報われてしまっているので、父からは到底報われないだろう、と思えるほどの祈りをなさいます。ところが、ルカ福音書によりますと、田舎者であったイエスの弟子たちはうまく祈れなかったんでしょう。そもそも祈りを教えてもらっていなかったようです。
ある日、「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」とイエスの弟子たちは、イエスに願い出ました。ヨハネの弟子たちはヨハネから祈りを教えてもらっていたことがわかります。
そんな、いきさつがあって、イエスが弟子に教えたのが「主の祈り」ということになっています。ちなみに、礼拝で唱えられている「主の祈り」とは、微妙に異なっています。
【二つの主の祈り】
「主の祈り」については、マタイとルカに記録されていますが、それぞれ異なっております。まず、ルカの福音書の方をみましょう。
イエスは言われた。「祈るときにはこういいなさい」「父よ、御名(みな)が崇(あが)められますように。(崇める・・・尊いものとして取り扱うこと)御国が来ますように。わたしたちに必要な糧(かて)を毎日(日々)与えてください。
わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑(ゆうわく)に遭(あ)わせないでください。」これだけです。
イエスが教えたのは、ただこれだけの短い祈りでした。弟子たちは、もっと長くて格好のいい祈りを教えてもらえると期待していたはずですから、がっかりしたでしょう。
マタイはもう少し言葉を追加していますが、それにしても短いです。マタイの方では以下のとおりです。
「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
多くの教会で唱えられている「主の祈り」はマタイ六章の方に近いものですが、さらに、「国とちからと栄えとは限りなく、なんじのものなればなり。アーメン」という言葉が加えられております。この付加部分は、福音書にはありません。ディダケー(教え)「十二使徒の教訓」という文書に記録されている主の祈りにはついているらしいです。
ディダケーは、マタイやルカ福音書が書かれたのと同時代、すなわち一世紀後半から二世紀ごろに書かれたと言われております。正典新約聖書に含まれている多くの文書群よりも早くに書かれているにも関わらずディダケーは正典に加えられませんでした。他にも、こんな文書がある、ということだけは覚えておいてください。とにかく、正典聖書だけを大切にしている、と言いながら、教会が、聖書でない文書の影響も受けていることは確かです。
今日読んでもらったルカ福音書の「主の祈り」は、マタイより短いですが、ルカが書き漏らした訳じゃなくて、それぞれが異なった伝承を受け継いでいたことを示しています。当時から異なった「主の祈り」があったということです。
ぼくたちは、「主イエスの祈り」の文言を独自に考えて唱えていますが、これに類することは昔からいっぱいあったということです。ぼくたちが突拍子もないことをしているんじゃないことが判っていただければ幸いです。
【「アッバ」という呼びかけがイエスらしい】
とにかく、マタイとルカの福音書に記録されている「主の祈り」を比較してみましょう。
「天におられるわたしたちの父よ」とか「天におけるように地の上にも」とあるように、マタイは、「天」という表現を好んで使います。マタイの特徴です。マタイの言葉に影響されて、昔はぼくも「天の父なる神様」と呼びかけて祈ってきたのは事実です。これに対して、ルカ福音書のイエスの祈りには「天におられる」という修飾語が付いていません。いきなり「アッバ」という呼びかけで始まっております。「父よ」と翻訳されていますけれども、そんな畏(かしこま)った言葉じゃありません。幼い子が「パパ」と呼びかける言葉です。ぼくが幼かった頃には、まだ「パパ」なんて呼び方は日本じゃ一般的でありませんでしたから、「パパ」なんて呼びかけると、「なに言うとんねん」てなもんでしたから、「お父ちゃん」と呼びかけていました。そういう言葉を「父よ」なんて訳してしまっては、イエスがわざと「アッバ」を使った意味が伝わりません。ですから、聖書を大事にしている、とおっしゃる人は、ちゃんと訳して欲しいです。それにしても、本当にこんな幼稚な言葉で祈ったんだろうかと厳格な方は思うでしょう。変だなあと感じるほどにイエスの祈りの特徴が表されていると言えるんです。
イエス自身の祈りの言葉は、ほとんど記録されていないんですが、一つハッキリと描かれている箇所があります。イエスが捕らえられる直前にエルサレム城壁のすぐ外にあったゲッセマネ(油搾り)の園で祈った言葉です。そこではやはり「アッバ」(お父ちゃん)と呼びかけた(マルコ十四章三十六節)祈りが記録されております。そこから推測しますと、ルカが伝えているように「父よ」と呼びかける祈りの方が、イエスらしいと言えます。
もっとも、ゲッセマネの園で、イエスの祈りを聞いていた人はいなかったはずですから、本当かどうかわかりません。それでも、イエスなら「アッバ」という言葉で祈り始めたはずだ、とマルコも思ったんでしょう。
ぼくも、数年前から、礼拝説教の後に祈る時に「アッバ」で始めるようにしています。この言葉で祈りを始めるのは、とても深い意味があるということがわかっていただければ幸いです。
【「神」と「アッバ」は違う】
「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけと「アッバ」という呼びかけは、同じ方に対して呼びかけているのだとほとんどの信者は思っているでしょう。しかし、この二つはぜんぜん違うはずです。
ほとんどの信者は「父なる神は、天におられる」と感じています。信者でなくてもほとんどすべての人が、死者も神も天にいるように考えておられるようです。
証拠もないのになぜそう思うんでしょうか。そのほうが落ち着くから、そう思いたいという気持ちは判りますけれども、今のぼくには受け入れられません。数ある宗教の教えを心に入り込ませないために、十分に議論しなければならないことだ、と考えています。
「アッバ」への祈りは格式をまったく度外視しています。ですから、イエスは教えられてきた神に祈っていないことは確かです。ぼくの想像によれば、自分で気がついた福音を人々に伝えるようになったイエスは、幼少時代から教えられてきたユダヤ教の神に向かっては祈れなくなっていたんじゃないでしょうか。とは言え、イエスは、天地を創造した神を教える宗教の下で育ったわけですから、表現の方法が判らなかったんだと思います。天の神様に祈れなかったので、イエスは「アッバ」に祈ったんでしょう。ですから、イエスの「アッバ」は「神」ではないと思います。
【神の支配と今日のパン】
そうだとすれば、「御名が崇められますように」という言葉の意味も、神様が崇められますようになどという意味ではないでしょう。これは、民衆を支配している人間を褒め称えるようなことはしない、ということです。続く「御国が、来ますように」というのも、同様に、身勝手な人間の支配が過ぎ去るようにという願いでしょう。
とにかく、誰であれ利己的な人間が支配している間は安心して生活できないので、人間による支配から解放されますようにという願いです。
さらに「ぼくたちに必要な今日の糧(かて)を下さい」と続いています。糧とは「パン」のことです。利己的な人間の支配から逃れた御国のイメージと、その日の飯(メシ)を食えることが同列に置かれていることが重要です。
今まで語られてきた神の支配は、神が全てを支配するところと受け取られてきましたけれども、そうではなくて、人間が支配者にならないからこそ、その日の飯が食える状態だと言い換えることができます。みんなで食えることが最も大切にされている。これこそイエスの祈りの本質だと思います。
祈りは抽象的な願いじゃなくて、日毎の糧を食べることができるようにという具体的な希望です。自然災害以外にそれを邪魔しているのは支配者になった利己的な人間でしかありません。
イエスにとって祈りとは、美辞麗句を並べることではなくて、人間同士が今日の糧を分け合えるように、互いに声を掛け合うことです。
【ぼくたちは】
かっこいい祈りなんてできません。それどころか、たとえ祈れなくても、具体的な生活において、ぼくたちが日々のパンを分け合うことができれば、それだけで十分なのだとイエスの祈りを聞いて教えられました。
残りは次週に続きます。