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「ズバリ言います」20220828
「ズバリ言います」20220828
聖書 マルコ福音書十四章二十二節〜二十六節
新興宗教と政治家の癒着がマスコミを賑わせています。政治家たちの答弁がはっきりしません。判ってやっていたとすれば悪質ですし、問題性を認識しないまま関係を持っていたとすればアホです。いずれにしても褒められたことじゃありません。何らかの関係があったことは確かなんですから、事実をはっきり認めてから弁明すればいいのですけれども、有耶無耶な返答しかできないというのは情けないです。良し悪しを別にして、現実を伝えてから今後の生き方をはっきりと表明すればいいと思うのですが、そうできない人を政治に携わらせていたのでは先が思いやられます。国民もはっきりとNOを言うべきです。同調圧力に流されやすくてはっきりしない人が多いのが日本の弱点です。
言うべき人が言わないで、新興宗教組織の側がはっきりと嘘を言う、というあってはならないことがまかり通っている。こんな状況を許していてはいけません。国民は一人一人が自分の気持ちをはっきりと表明すべきです。まだまだこの社会は成熟していません。
とは言うものの、ぼくもなかなか本当の気持ちを言えない方です。そんなことないだろうという顔をみなさんしておられますが、本当は気が弱いんです。だから頑張って自分の気持ちを外に出すように努力しているのが事実です。努力しないで好き勝手なことを言っているんだと思ってもらっちゃ困ります。そこのところよろしくご理解くださるようお願いいたします。
イエスもはじめは気の弱い若者だったに違いありません。弱かったからこそ宗教の誘惑に負けて、荒野での厳しい修行に励んだんでしょう。しかし、ある時に、こんな修行をしていても埒(らち)が明かないと悟って、力強くなったイエスは、修行なんかさせる宗教を捨てて、自分の思いを語り出したに違いありません。
民族宗教や伝統の縛りを払い除けて自分の気持ちを自分の言葉で語り出した。これがイエスの福音というものです。
【ズバリ言う】
本当に言いたいことを言う時に、イエスは最初に「アーメン」と語りました。多くの場合、祈りや讃美歌の最後に唱える言葉です。「誠に」とか「そのとおり」という意味です。唱えられた祈りの言葉に私も同意しますということです。そんな言葉を、イエスは文章の初めに付けたのは、聞く人の注意を引くためだったのでしょう。
「誠に」とか「よく」とか「はっきり」などと訳されてる日本語訳聖書を比べて見ましょう。「誠に汝らに告ぐ」(文語訳)・「あなたがたによく言っておく」(口語訳)・「まことに、あなたがたに告げます」(新改訳)・「はっきり言っておく」(新共同訳)・「アーメン、私はあなたたちに言う」(新約聖書翻訳委員会・いわゆる岩波訳)などとなっております。元のギリシャ語をカタカナで表記すれば「アメーン・レゴー・フーミン」と書かれていますので、岩波訳がイエスの言葉を最も適切に表現していると思います。
文語訳も良いのですけれども、原文の響きを残して、イエスに特徴的な言い回しを引き出すために、アーメンをそのまま最初に置いた岩波訳がすぐれていると思います。とは言え、現代人には伝わりにくい表現であるとも感じました。そこでいろいろ考えまして、今日の説教題のように「ズバリ言う」と訳してみました。言語的に正確ではありませんが、現代に伝わる表現であると思います。(お馴染みの自画自賛です)
ちなみに、次のこともズバリ言っておきましょう。この言葉が使われている箇所の全てがイエス自身に遡るとも思えないことを付け加えておきます。たとえば、「はっきり言っておく。福音のために・・・捨てた者は・・・この世で・・・百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ十章二十九、三十節)などと続いてる文章は注意する必要があります。なぜなら、教会が信者に信じさせたい内容を、この言葉に続けることによって、権威づけしたと思えるからです。このような箇所がいくつもあるので注意が必要です。
【別れの言葉も福音も理解していなかった】
さて、今日読んだ聖書の箇所に出ていた「スバリ言う」という表現は、この後に大切な教えを語るための前置きではありません。この後には「神の国で新たに飲む日まで、ブドウの実から作ったものを飲むことは決してない」と伝えているだけですから、難しい真理を語ってるのではありません。回りくどい言い方を避けてズバリ言わせてもらえば、イエスは「ズバリ言う。ぼくは二度とブドウ酒を飲むことはない」と言っただけです。これは意味深い発言でした。つまり、これは別れの盃(さかずき)だとイエスは明言したのです。
予言などというものではありません。イエスは自分が殺されることを、当然予想していたのです。そうであるにもかかわらず、同行者たち、いわゆる弟子たちは全然緊張感を持って聴いていなかったのです。
考えてみれば、イエスのSPじゃなかった弟子たちに緊張感がなかったのは無理ないと思います。けれども、イエスが危機であるならば、同時に弟子たちも危険に曝されているということです。このことに気づいていて良いはずなのですが、彼らは自分たちが置かれている状況をまったく把握(はあく)していなかったのです。
この食事の後に、エルサレムの城壁の外に隣接しているオリーブ山に全員で出かけたのです。そしてゲッセマネ(油絞り)の園で、イエス一人が弟子たちから離れて祈ってから戻ってみると弟子たち全員が眠っていたと書かれています。
危機に立ち向かうイエスの気持ちをすべての弟子たちが感じ取っていなかった証拠です。はっきりと言えない多くの人々は、ズバリ語られた真実の言葉をズバリ聞くこともできないのです。弟子たちには認めがたいことでしたから、「別れの盃だ」とズバリ言った言葉を理解できなかったのです。イエスの言葉を理解できなかった弟子たちは、イエスの福音をも理解していなかったはずです。弟子たちはイエスの言葉をズバリ言葉のままに受け止めていなかったのでしょう。ズバリ言っても気づかない人にはどうすれば良いのでしょう。
イエスの命が狙われた原因は、イエスが自分で自分を神の子であると宣伝したからではありません。自分をメシア(キリスト、救い主)だと宣伝したからではありません。人間が勝手に作り上げた神概念を教えて、そんな神に仕えなければ滅ぼされるし幸せにはなれないと教えて、人間が作った律法で人を縛り上げていたユダヤ教から民衆を解放する福音を教えたからです。そのように考え、そのように行動したイエスが、自らを神の子だと宣伝するはずありません。
ズバリ言います。イエスは自分が神の一人子だと考えてもいなかったし、そのように告白されることさえ望んでいませんでした(マルコ八章二十九、三十節)。イエスを神の子にしたのは、後に設立された教会です。ズバリ本当のことを言わない教会を批判するために、マルコはイエスの物語を書いたのです。
【ぼくたちは】
イエスがズバリ言った真実をそのまま聴いて、イエスの福音によって、我々を縛ろうとする人間が作った宗教から解放されましょう。これがズバリぼくたちを幸せにするからです。