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「いつも君のそばにいます」20230416

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「いつも君のそばにいます」20230416

聖書 ルカ 二十四章 十三節~三十五節

 

 先週の復活祭では、マルコ福音書だけが復活したイエスを登場させないことを伝えました。殺されたイエスがまるで生き返ったかのように再登場させたりしないからマルコ福音書は信頼できる福音書なのです

 そんなこと言いながらルカ福音書から説教するなんておかしいではないかと思われるでしょうから、まず初めにお断りしておきます。今日のルカ福音書に登場させられている復活のイエスは、まるで生き返ったかのようなイエスじゃありません。イエスの亡霊でもありません。弟子二人の思い出の中に生きているイエスだと考えるのが一番妥当であろうと思います。そういう意味でこの物語を取り上げることにしました。まるで生き返ったかのように活動を再開したかのような復活のイエスをぼくは認めておりません。

 

【やさしさを醸(かも)し出すイエス】

 今日の物語を、イエスがまるで生き返ったかのように弟子たちに姿を現した物語だと教えている教会が多いはずです。しかし、よく読めば、実際にイエスが現れたのでないことが判るはずです。確かにルカ福音書に収められている物語ですが、ルカが書き下ろした物語ではなくて、独立して伝えられていた物語だったのだろうとぼくは考えております。なぜなら、この物語に登場する復活のイエスは、殺されたけれども父なる神によって復活させられた力強い神の子メシアではないからです。それどころか、やさしさを漂(ただよ)わせています。多くの信者さんがこの物語を好きだとおっしゃるのは、この物語が醸(かも)し出しているイエスのやさしさに心が癒されるからです。

 命令に背こうとする預言者やモーセに自分の力を見せつけて従わせる旧約の怖い神様とは違って、今日の物語に登場する思い出の中のイエスはぼくらのをやさしく温めてくれます。

 

弟子たちをエスコートするイエス

 生前のイエスのやさしさを最もよく現している仕草は、なんと言いましても、エルサレムから離れていく弟子たち並んで、弟子たちと共に歩む姿です。意気消沈している弟子たちと同じ方向に、つまりエルサレムを背にして歩んでいるイエスがとても印象的です。

 弟子たちの愚痴を聞きながら一緒に歩いているだけです。エルサレムからなぜ逃げ出したのか弟子たちを責めませんし元気出せよと励ましたりもしません。物分かりの悪い弟子たちにちょっと苛立っているような表現も見られますけれども、それはルカの気持ちの表れでしょう。本当のイエスは、ものわかりの悪い弟子たちに苛立つこともほとんどなかったと思います。そうであったからこそエルサレムを離れていく弟子たちと一緒に歩いたりするというイメージを弟子たちも持てたのです

 ただ、このような生き様しか示さないイエスが何の役に立つだろうかと多くの人は思うかもしれません。なぜならば、世の中の多くの先生たちは、頑張れ頑張れと弟子たちを奮い立たせようとするものだからです。たしかに、ほとんどの神様も仏様も、頑張る人だけを応援しているように感じられます。頑張れない人に「頑張れ」と鼓舞(こぶ)する怖い神様のイメージが多いです。しかしイエスは、そんな方ではありませんでした。弱っている人に頑張れなどと発破をかけることは逆効果です。弱い者とただ一緒に居るような生き方こそが弱いを本当に強めることになるのだとぼくも思います

 

思い出の中でイエスに出会う

 さて、イエスが十字架で殺された事件から三日後、すなわち日曜日に、弟子が二人一緒にエルサレムを離れたようです。十二弟子ではありません。一人はクレオパで、もう一人の弟子は名前すら分かりません。

 日曜日の早朝イエスの墓に行った女たちに「使いが現れて『イエスは生きている』と告げた」と女たちが言っていた」(ルカ二十四章二十二節~二十三節)その後にもかかわら二人は、エルサレムを去ったのです。イエスが殺害されたので全く希望を失くしていたことが判ります。それでもイエスの思い出だけは二人しっかりと残っていたのでしょう。イエスについて話し合いながら歩いていたときに、イエスが一緒にいるように感じたので二人は思い出の中のイエスと共に歩いていたので。二人は会話の中でイエスから教えられことを何度も反芻したに違いありません。そのうちに日が暮れたのでエマオという村宿に入りました。

 

【パンくイエスの姿

 宿で、感謝と讃美の祈りをしてどちらかがパンを裂き、もう一人に渡したのでしょう。その姿を見た時に、二人はイエスのパン裂きを鮮明に思い出したにちがいありません。

 パンを裂いて分けてくださったイエスの姿を鮮明に思い出したはずです。しかしもちろんイエスの生身の身体はありませんでした。普段イエスがなさっていたことを思い出しただけだったからだと思います。ですからこの物語は、弟子たちが、目や耳で捉えたものを表現しているのではなくて、弟子たちの心の状態を表現しているのです。このような思い出は、軽視されがちですけれどもとても重要なことです

 

【思い出にこそ意味がある】

 会話する中で、二人はイエスが教えて下さっことにもう一度触れ、互いの「心が熱くなった」のです。

 生身のイエスが教えて下さった時に理解できなかったことを、二人は互いに論じあったことによって、自分たちの力で理解するに至ったのでしょう。イエスから教えられたことを自分たちの議論の中で理解した時に、二人は進む方向を百八十度変え出発点であったエルサレムを目標に進み出したのです。

 殺されたイエスが生き返って来るはずないのですが、思い出の中で、彼らはイエスに会うことができたのです。

 

ぼくたちは】

 イエスのように生きなさい。君が復活して、君が立ち上がりなさいと先週は説教しました。イエスの思い出が生きてい弟子たちイエスのように生きたはずです。

 イエスが殺され、絶望していた弟子二人のように、全てのことから見放されていると感じる時があるかもしれません。しかしまさにその時にこそ一緒にてくださるイエスを弟子たちは体験しています。そうだとすれば、この弟子たちも、絶望している人を見た時に、その人のそばを一緒に歩くのではないでしょうか。イエス絶望している人と共に歩くことを知っているからです。そんなことならぼくらにもできます。奇跡はできませんが、何処に向かっていようとも、一緒に歩いていてくれる友になら、お互いになり得るはずです。そんな友がいれば、安心できるじゃありませんか。

 一歩先を歩くのでもなく、ついてこいというのでもなく、頑張れというのでもなく、自分で気がつくまで、同行してくれる友がいれば、それがいちばんの支えになるはずです。

 そんな共になれたなら「君が復活しなさい」という先週の説教題のようにあなたイエスのようになれるのです

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