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「君は生きてますか?」20230716
「君は生きてますか?」20230716
聖書 ルカ福音書 十五章十一節〜三十二節
先週も先々週も、同じ聖書の箇所からイエスの譬え話を紹介しました。
説教のビデオを少し短く編集してユーチューブに揚げていますけれども、司会者による聖書朗読の部分は、司会者を公衆に晒さないためにカットしています。先週、姉と電話で話していた時に、聖書を読んだことのない人は、何のことを言っているのか判らないんじゃないかなあ、という意見をもらいました。それもそうだと思いましたので、今日は三度目になりますけれども、譬え話の筋を、むかしばなし風に説明することから始めます。
それでは、始まり始まり・・・
「むかしむかし、あるところにお金持ちが住んでおった。お金持ちには二人の息子がおったんじゃ。長男は父の言いつけを守り、朝早くから陽が暮れるまでよーく働く息子じゃった。しかし次男は遊んでばかりおったそうな。
ある日、次男はお父(おとう)に頼んで、財産の半分を分けてもろうて、それを全部お金に変えて、遠くの街に行ってしまいよった。
働きもせずに大金を手にした次男はお金の使いかたも知らんじゃったから、遊びほうけて、すぐに全財産を使い切ってしもうたんじゃ。
運悪く、その地方に雨が降らず食べ物が実らない大飢饉が襲ってきた。次男は食べる物にもありつけず、豚の餌を口にしたそうな。
どん底を知った次男は、どうすれば生きていけるか考えた。そうだ、おとうの家なら、食べ物がある。使用人の一人にしてくださいと頼めばなんとかしてもらえるかもしれん、と都合の良いことを思いつきよった。
次男は、おとうの家に向かってトボトボ、歩き始めた。
ある日、見分けが出来ん程にボロボロになった男が歩いて来るのを見たおとうは、すぐに次男だと悟ったので、走っていって汚い次男をハグしたんだと。それから使用人を呼びつけ、息子であることを証明するための晴れ着と指輪と履き物を持って来させ、お祝いのパーティーまで用意させたんじゃ。
パーティーが始まった頃、長男はまだ畑で働いておった。仕事を済ませて帰って来た長男の耳には、なにやら音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
「これはいったい何の騒ぎじゃ」と長男が尋ねると、「弟さんが無事な姿で帰って来られたので、お父上が肥えた子牛を提供してくださったんです」と使用人が答えたではないか。
長男は激怒して家に入る気が失せてしもうたのも、もっともなこと。その様子に気がついたおとうが、長男を迎えに行ったんじゃが、長男の怒りは収まらなんだ。
「長年、文句も言わず、これほど仕えて来た私が友達とパーティーする時に子山羊一頭くれたこともない。それなのに、あなたの財産を食い潰したあのあなたの息子が帰って来ると肥えた子牛まで差し出してやるって、どういうことなんじゃ・・・」と、従順を装っておった長男はこのとき初めておとうに激しく反発したんだとさ。
【復活の新しい解釈】
譬え話の男三人はどうにもチグハグで、突っ込みどころ満載です。けれども今日は、先週も先々週も取り上げなかった言葉に注目してもらいます。
父が使用人に向かって「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言った言葉と、家に入ろうとしない長男を宥(なだ)めるために父が言った最後の言葉、すなわち「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」と言った言葉です。。
この譬え話に「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と二度も書かれているのですから、父のこの言葉こそこの物語の強調点に違いありません。
帰って来た息子を「死んでいたのに生き返った」と表現しているのですから、多くの教会で語られてきた「イエスの復活」とはまったく異なった意味の「復活」が伝えられているのです。
【人間関係の回復こそ復活】
物語の構成に腑に落ちないところは数々あるのですが、とにかく、行くへ不明の次男が無事に帰ってきたことを、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と表現した父の言葉こそが大切なのだと思います。
災害によって大切な肉親を亡くされた方々がこのような言葉を語ることができれば本当に喜ばしいのですけれども、これは譬え話であって、そのような現実があるわけではないことをご了承頂かなければなりません。
とにかく、この譬え話に置いては、次男との関係が再構築できるようになったことを、「死んでいたのに生き返った」とまるで復活したかのように語っていることに注目すべきです。
別の視点から考えてみますと、物理的に生きていても、距離的にではなくて心が離れている状態を「死んでいる」と表現しているのです。
ぼくたちの周りを見れば、そんな状態ばかりであることが判ります。たとえば。どんどん顕(あらわ)になってきたグローバリストと反グローバリストの紛争、国家や民族の紛争、同一民族の中にも紛争が絶えません。
地域や会社や学校、そして家庭の中にも、違いを認め合えない紛争が満ち溢れております。
個人的な違いを突き詰めていくと、分裂ばかりが生まれます。個人主義が生み出す孤独な寂しさによって、人は押し潰されています。
個人の欲望を際限なく求める人は、意外にも早く全てを失うものです。自分の個人的生活を追い求めても、生きていけません。
他者との関係を持っていない人なんて、財産をなくし、遊び友達さえなくし、路頭に迷っている次男のようなものです。
人間関係が壊れている人は、たとえ物理的に生きていても死んでいる。多くの人は、人間関係を保てない状態、すなわち死んでいる状態なんだ、と父の言葉は警告しているのです。
個人的に物理的に生きていたとしても、孤立して誰とも関係を結べない人は、死人と何ら変わらない、人間として生きていない、というのがこの物語が伝えていることだと思います。
【ぼくたちは】
不甲斐ない息子たちですけれども、せめて自分を大切にしてくれるおとうの声かけに何とか答えることができれば、その時に生きた人間になるのです。誰であれ一人の人との関係ができれば、それだけで生きた人間になる。食べたり飲んだり歌ったり踊ったり、楽しむことができる生きた人間になれるのです。
「死んでいた人が生き返る」ということは「死んでいた息子が生き返った」と語った父の言葉が示しているように、人間同士の関係を取り戻すことです。不完全でもいい、たった一人でいいからあなた以外の誰かとの関係を持つことによって、あなたという人が人間になるのです。あなたの周りの人もこのようにして生き返るのです。
このように、他の誰かとの関係を復活させることが世の中の再生になるはずです。
分断と個別化の社会にあって、ぼくたちは人間関係を再構築して「死んでいた人が生き返る」社会を築くことにいたしましょう。