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「ベタニア発エルサレム行き」20200405

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「ベタニア発エルサレム行き」20200405

聖書 マルコ 十 節〜十一

 

【棕櫚の日曜日】

 復活の日曜日の一週間前に、イエスエルサレムに入城なさいました。イエスがロバの子に乗ってエルサレムに登っていく道すがらに棕梠(しゅろ・ヤシ科の常緑樹)の葉の付いた枝を敷いた、という記述があることから、この日を棕梠の日曜日(英語ではパーム・サンデー)と呼んで、記念するようになりました。

 その情景を、伝統的な解釈は、イエスが恰好良く、威勢よく入城したように伝えてきました。ハリウッドで作られるアメリカ映画、颯爽(さっそう・キリッとして)として、イエスが行進して行く姿が描かれています。けれども、ロバの子に乗っているんですから、かっこいいはずはない、とぼくは言ってきました。

 数年前のことです。「イエスって小さい人だったんですかという質問を受けました。変なことを言うなあ、と思いまして、「なんで」と聞き返しますとだって、大きい人が子ロバになんか乗ったら、地面に足がついちゃうじゃありませんかと言われました。そう言われるまで、そんなことを考えたこともありませんでした。

 伝統的な聖書解釈に汚染されていない人の意見は面白いですね。考えたこともなかったことを気づかせてくださいます。

 ロバの子がどんな大きさなのかわかりませんけれど、乗馬経験のある人に言わせれば「ロバって小さいですよ。しかも子ロバでしょ」という意見でした。考えてみれば、本当にそうだな、と思いました。

 子どもがおもちゃで遊ぶときのように、お尻だけ乗せて、自分の足で漕ぐようにしながら進んでいたのかなあ、なんて言いながら笑ったもんです。

 いずれにしても、華やかな入城じゃなかったことをぼくは確信しました。

 

【聖書の記述と思い込み

 ぼくたちの思い込みと、聖書の記述がずいぶん異なっている、ということは多いもんです。

 たとえば、今も「棕櫚の日曜日」と言いましたけれど、マタイでは木の枝(マタイ二十一章八節)を、マルコでは葉のついた枝(マルコ十一章八節)を道に敷いたことになっているだけです。「ナツメヤシ」という具体的な表現をしているのは唯一、ヨハネ(十二章十三節)だけです。ルカ福音書至って「人々は自分の服を道に敷いた」とあるだけで、「木の」にも「ナツメヤシ」にも言及しておりません。

 まあ、ナツメヤシでも他の木の枝でも、何でもいいですけれども、この日、イエスが特別な格好でルサレムに入城したことだけは確かなようです。

 ただし、まるで新しい王様が市内を行進し、エルサレム中の住民が、喜び踊ったように描いているのは映画だけです。聖書をよく読めば、現実は映画の世界とは随分異なっていたと考えた方が良さそうです。

 

【レンタル】

 飾り立てられた立派な軍馬にまたがって入城してくる支配者たちとは違いまして、イエスはロバの子に乗ってエルサレム城内に入って行ったということに、権力者に対する批判が込められていたことは確かでしょう。イエスを先頭にした行列が、ベタニア村を出発点にしていたということにも権力者への抗議の姿勢を見て取れます。

 ベタニアはベート・アーニア(嘆きの家)という意味で、伝染病患者家族を隔離する村だったようです。そんなから、王の都エルサレムの中心である神殿まで行進しているわけですから、これはデモ行進。軍馬じゃなくてロバの子に乗っているんですから、平和なデモ行進だったに違いありません。

 しかも、この時に乗ったロバの子が、借り物だったということ笑いを誘います。イエスは緊迫した状況の中でも笑いを忘れない人だったように思います

 アメリカのトランプ大統領が来日した際には、パレードのために、大統領専用車を空輸してきました。こまでできる人はざらにいません最近では旅行先でレンタカーを借りるなんてことは珍しくありません。いい格好をしたい人は、威厳を繕(つくろ)うために大きくて立派な車を借りるもんです。しかし、イエスは馬を借りたんじゃなくて、ロバの子を借りました。今で言えば、若者が、彼女の家に初めて挨拶をしに行く時に、軽自動車をレンタルしたようなもんです。しかも馬じゃなくてロバですから、乗用車でもなくて、軽トラックを借りて、彼女の家に颯爽と乗り付けたようなもんです。

 このように考えただけで、ハリウッド映画の嘘を見抜けます。イエスが命がけでなさったパフォーマンスの意味を見逃してしまわないために、映画の表現なんかに騙されないように、注意してください

 

アタックキャンプはベタニア村

 マルコ福音書によれば、初日はエルサレム神殿あたりを見回っただけで、イエスはベタニア村に帰っております。次の日からは、毎朝ベタニアからエルサレムに登って神殿に巣食っていた律法主義者たちを批判したんですが、日が暮れる頃にはベタニアに戻っているんです。

 先週も言いましたように、ルカ福音書イエスも、夜にはエルサレム城壁の外には出るんですが、近くのオリーブ畑で休まれたことになっております。ルカ福音書のイエスは、ベタニア村と関係していないことになっております。

 イエスをベタニア村に関係付けたくないルカの気持ちはが判らないではありませんが、イエスはベタニア村に深く関わっていた人だった、とぼくは考えています。具体的に言えば、マルコが書いているように、民衆から嫌われていたベタニア村で夕食を準備してもらい、ベタニア村宿泊したいうことです。

 ベタニア村は、重い皮膚病人シモンの家(マルコ十四章三節~九節)あるいは、イエスに生き返らせてもらったラザロ(ヨハネ十二章一節以下)の家があイエスは何度も訪れています。登頂を目指している登山家がアタック直前に設営するキャンプような場所。それがベタニア村です。エルサレムに近い、ということもあって、エルサレムへ向かう出発点としてイエスはベタニア村を選んだんでしょう。

 

【滑稽(こっけい)な行列】

 しかし、ベート・アーニア村を出発し、イエスを先頭に、弟子たちや村人たちが「主(神)の名によって来られる方、王に祝福があるように・・・」ホサナ主よ救ってください」と叫びながらエルサレムに向かって行進してくる行列は、どう見ても滑稽です初日はレンタルしたロバの子に乗って、その後、みすぼらしい弟子たちを引き連れてベタニア村から王の都エルサレムまで毎日通ってくるんですから、エルサレムの住民には滑稽(こっけい)な集団だとしからなかったはずです

 こんな解釈は、みなさんが今まで思い描いてきた内容とは全然異なっているはずです。ですから、素直に聴けないだろうと思いますけれども、マルコ福音書に書いてある記事を素直に読んだら、ぼくが言っていることの方が事実に近いと判るはずです。

 イエスの一行がこのようにみすぼらしい姿だったとしたら、エルサレムに集まっていた民衆が「ホサナ」と叫んだしても、の底から喜んでんだんじゃなくて、イエスの行列を茶化して「ホサナ(主よお救いください)」と叫んだんだろう、と思います。

 

権威主義はイエスを見誤る

 イエスが殺害された後の時代に誕生した教会は権威主義に毒されてしまったから、威厳のないイエスを受け入れられなかったんでしょう。

 ロバの子に乗ってエルサレムに入城したイエスを、平和の「王」として入場なさったんだと教え、エルサレムの住民はこぞって「ホサナ」と叫んでイエスを迎え入れた、と報道しました。まるで偏(かたよ)った新聞報道のようです。

 イエスが偉大でなければならないという発想は、イエスの福音に基づくものではなくて、権力主義に基づくものです。

 そんな偏った報道で、教会は、何を伝えようとしたんでしょうか。権威主義は権威ある者の役に立つことはできますけれども、権威を持たない者、弱い者、虐(いじ)められている者を救えないことを、なぜ教会は気づくことができなかったんでしょうか。権威主義に陥った教会は、イエスが活動なさった当時のエルサレム神殿と同じ立場に立ってしまったことを理解していなかったようです。

 教会権威のある人の役にしか立てず、虐げられている民衆を救おうとないならば、イエスを先頭にした滑稽な行列が、今度は教会に向かって行進してくることを想像できなかったんでしょう。

 こんな間違いを犯さないためには、エルサレムに入城したイエスの行列の格好とその意味を、マルコから素直に受け取るしかない、とぼくは思います。

 

そのままを受け入れる

 今日読んだ記事で大切なのは、(しいた)げられたベタニアの代表であって、イエスは決して王ではないということです。権力主義と律法主義の牙城(がじょう・勢力の中心)に、格好悪い姿で、乗り込んだ、という事実を素直に受け止める必要がある、とぼくはいます。

 イエスは王としてエルサレムに入城したんじゃないんです。ベタニアの病人とその家族の代表です。ベタニアの代表だからエルサレム入城した意味があるんです。だからイエスの出発地はベタニア以外には考えられないんです。

 

【ぼくたちは】

 ベタニアの人々の望みとはなんだったんでしょうか。何も書かれていませんけれども、今のぼくたちと同じで、人間らしく生活できるようにしてもらいたい、ということに違いありません。病人であろうが、底辺にいようが、人は愛されなければ(大切にされなければ)生きていけないですから人間らしい扱いをしてほしい、ということだと思います。

 あなたもわたしも、コロナで苦しんでいる人も、生活を守られるという仕方で愛されることを望んでいるんです。人が求めているのは、神の愛とかじゃなくて、人を支える人間の底力です。それが愛なんじゃないでしょうか。

 人間の底力である愛に支えられてきたイエスは、社会から除け者にされていた人々の代表として権力者に人間性(愛)を求めるためにエルサレムに行ったんです。だからイエスは、人間性を傷つけられているあなたのためにも、先頭に立って権威者に抗議してくれる存在なんです。

 権力は人を救いません。見せかけの格好良さ必要ありません。

 イエスは、みすぼらしい人として生まれ、みすぼらしい人として育ち、みすぼらしい者たちの代表として、みすぼらしいままの格好で、ぼくたちの前を歩んで、あなたのために権力に抗議してくださる方だということですぼくたちが必要とているのがそんなイエスであるように、ぼくたちもイエスのように生きることが望まれているんだと思います。

 

 

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