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「イエスは誰も罪には定めない」20190915
「イエスは誰も罪に定めない」20190915
聖書 ヨハネ 八章一節~十一節
先週は、新約聖書の翻訳には定本が使われているので、定本が変われば翻訳も変わるということ、つまり、聖書は決して固定していない、という事実を紹介しました。衝撃的だったかもしれません。
【新約聖書についての豆知識】
キリスト教は聖書を土台にしている、と言われます。けれども、多くのクリスチャンは、聖書について知ろうともしていないように思います。大切なものならば、無批判に受け入れてしまうんじゃなくて、少しは聖書について知る必要もあるだろうとぼくは思います。ですから、今日も聖書について、ちょっとした豆知識をお伝えすることから始めようと思います。
さて、新約聖書には一応二十七に分けられた文書が収められています。一応と言いましたのは、いくつかの手紙がまとめられて、一つの手紙にされているように思えるものもあるからです。とにかくそれらの中で、最も古いものは、五十年代にパウロが書いた手紙群です。福音書の中で最も早くに書かれたマルコ福音書でも、七十年以降だと多くの学者が考えております。そして、新約聖書の文書群が今のようにキリスト教の正典としての地位を確立したのは四世紀の後半です。パウロが活躍した頃には、新約聖書という概念がありませんでした。パウロの手紙が新約聖書に含まれているんですから、当たり前のことです。自分の手紙が、後にキリスト教と呼ばれる宗教の正典に入れられるなんて、パウロは想像もしていません。パウロが活動していた頃に新約聖書はありませんから、現在のように聖書を土台にしていると言う教会もありませんでした。今では、偉大な権威を持つ正典だという扱いを受けておりますけれども、元来、そんなつもりで書かれたもんじゃない、ということをはっきり覚えておいてください。
もっとも、後期に書かれた文書には、教会の中で大事にされ、回し読みされることを望んで書かれたものもあります。パウロの書いた手紙が、多くの教会で大切にされ、回し読みされたり書き写されていることを知った人が、パウロの名前を騙(かた・名前などを偽る)って手紙を書いたことも事実です。その頃には、パウロの手紙が、ある程度の権威を持っていたと言うことができます。とは言え、キリスト教の正典などという位置付けを持っていなかったことは明白です。
先ほども言いましたように、四世紀になってから、二十七の文書が正典新約聖書になっていったんです。正典新約聖書が出来てからは、教会が新約聖書の規制を受けるようになりました。けれども、元来は、順序が逆です。教会が正典新約聖書を作り出したんです。
「イエスこそが救い主である」と信じた人々が自分たちの集まりを、地域の個々の教会と認識し始めたのは比較的早い時期かもしれません。けれども、いくつかの教会が纏(まと)まって、キリスト教という宗教組織として認識されるようになったのは、四世紀でしょう。その陰には、ローマ帝国があったと考えられます。
【ローマ帝国とキリスト教】
ローマ帝国の混乱を克服した皇帝コンスタンティヌス一世が、三一三年にキリスト教を公認していますので、その頃には、勢力を増した教会が宗教組織として認識されていたことが判ります。そんな教会の勢力をコンスタンティヌスは、利用しようとしたんでしょう。しかし、その頃はまだ教会の地方色が強かったようです。教会全体が組織として統一されていなかったことは問題だったでしょう。キリスト教の教義を統一するために三二五年にニケーア公会議が開催されました。注目すべきことは、この会議を招集したのはコンスタンティヌスだということです。ローマ皇帝がキリスト教を利用しようとしていたことは明白です。
キリスト教が政治権力と手を結んだ宗教として認識されるようにり、テオドシウス帝が三九二年にキリスト教を国教としたこと、これらのことが三九七年にカルタゴで開かれた教会会議での新約聖書の正典化に結びついているわけです。教会が、キリスト教という宗教組織の地位を確立したことと、正典新約聖書が決定されたことは密接している、ということです。しかもそらをローマ皇帝という政治権力が指導していたんです。
権力と結びつくことによって、国家宗教の地位まで上り詰めたキリスト教が、権威主義の罠に落ち込んでしまったのは当然です。ここから判ることは、キリスト教という権威主義の宗教組織は、イエスの意思を受け継いでいない、ということです。
【生身のイエスは権力者じゃない】
ぼくたちが、今まで見続けてきたイエスは、間違いなく権威主義に対立している、と言えます。
イエスの生き様を知ろうと思うと福音書に頼るしかないんですが、少なくともマルコ福音書の中のイエスは権威主義者に見えません。ヨハネ福音書のイエスは、父なる神の独り子を自称し、権威を主張しています。そんな記事があることも事実ですが、生身のイエスの物語には、権力者ではなくて、権力に抗う生身の人間の姿を感じます。
ユダヤ教という宗教の縛(しば)りから人々を解放するために生涯を捧げたイエスは、権威主義の宗教を認めていません。権力に立ち向かった福音書のイエスと、権力に阿(おもね・へつらう)ったキリスト教のキリストには断絶があります。
一冊に纏(まと)められて正典新約聖書になったそれぞれの文書は、著者も著作年代も著作の意図も、社会背景も全く異なっています。元々はバラバラだったものを一緒くたにチャンプルしちゃ意味が判らなくなります。ぼくたちは吟味しつつ読まざるを得ません。このような理由があるから、宗教化されたキリストよりも、肉体を持ったイエスの言動に、ぼくは心を惹(ひ)かれるんです。
【隠しきれないイエスの福音】
先週紹介した「徴税人や娼婦の方が君たち(宗教指導者)よりも先に神の国に入る」というイエスの言葉は、権威主義に対立する言葉です。権威主義で纏(まと)めようとして書かれたマタイ福音書の中にも、このような言葉が残されていることが、ぼくには愉快でなりません。世の中の権威主義者が語ってきたことと、イエス自身が語った言葉が全く異なっていたので、それを全て覆い隠しきれなかったんでしょう。イエスが語った福音の言葉は、覆(おお)い隠されても、このような形で滲(にじ)み出てくるほどにインパクトが強かったんだと思います。
人々の印象に残ったイエスは、この世に迎合(げいごう・気に入るように務める)していません。権威主義で立っている組織の中では多くの人は救われません。そんな人々にとって、イエスの福音は現状から救い出してくれる、唯一納得のできる言葉だったに違いありません、だから、様々な妨害工作がなされても、イエスの言葉は生き残ったんだと思います。
イエスの事件から四十年近く経ってから書かれた福音書に、イエスの生き様が残されていることは奇跡です。人々の中には、イエスの鮮烈な記憶と物語が残されていたんだと思います。
早い段階から教会の組織化は進んでいたようです。しかし、組織化されつつある教会の生き様にマルコは疑問を持ったんでしょう。生身のイエスの福音を忘れかけた教会の生き様を正すために、マルコはイエスの生き様を伝えている物語を集めたんだと思います。そしてイエスが実際に何を伝え、どのように生きたのかを、物語を通して示し、権威主義になっていく教会に疑問を投げかけたんだろうと思います。
マルコ福音書に続いて、マタイとルカが福音書を書いていますが、これらは、マルコの主張に対立して、教会の組織化を擁護するために、書かれたんだと思います。しかし、そのような主張で書かれた福音書の中にも、先週紹介した言葉が残されているのは、イエスのインパクトが強かったためであると思います。マタイやルカがそれぞれの独自性を強調するために集めた物語にも、イエスの福音がしっかり残されていました。イエスの物語には隠すことのできない福音があって、それを書き換えることができなかったんでしょう。
【写本に挿入された福音】
先週の聖書楽講座の席で紹介したんですが、姦淫の現場で捕らえた女を連れてきた人々に、「罪のない者がまず石打ちを実行すればいいだろう」と言った件(くだり)を今日読んでもらいました。イエスの福音を知らせる大胆な物語で、多くの人が大切にしています。しかし、この物語は元来、ヨハネ福音書にはありませんでした。正典新約聖書に現存する四つの福音書のどこにも、この物語はありませんでした。ヨハネ福音書の著者の主張と全然違うと感じますので、ヨハネのものじゃないことは明白です。ということは、ヨハネ福音書を写本している間に、この物語を、誰かが書き込んだ、ということでしょう。
古い写本にはこの部分がすっぽりないんですから、新約聖書を翻訳する際に用いるギリシャ語の定本を纏めた学者たちも、ここにこの物語がなかったことを知っています。はっきり判っているにも関わらず、捨てるわけにはいかない物語だと考えたから、本文批評の原則に反してでも、括弧付きで、物語をそのままここに残したんでしょう。翻訳した学者も同じ思いなんでしょう。
このようなことが起こったのは、権威主義や組織論を超えて、人間にとって大切なことを、みんなが感じることができているからです。イエスのダイナミックな福音はそんなもんです。
【ぼくたちは】
どういう状態であっても、そのままで認められている(愛されている)という主張がイエスの福音です。組織論では人間は救われません。権威主義に反するイエスの教えを信じる(受け入れる)だけで、ぼくらは囚われから解放されます。
聖書は天から降ってきた書物じゃないんですから、イエスの福音を感じ、吟味しながら読むようにぼくは努力してきました。これからもそうでありたいと思っています。ぼくたちを解放して救うために真実を語ったイエス、そのイエスの権威じゃなくて、イエスの福音を聴いていきましょう。