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「人に祈れ」20240211
「人に祈れ」20240211
【イエスは祈らなかった】
祈りを教えてくださいという弟子たちのリクエストに応えて、渋々(しぶしぶ・いやいやながら)教えたのが「主の祈り」(マタイ六章七節~十三節とルカ十一章一節~四節)だったのだろう、とぼくは考えています。それまでイエスが弟子たちに祈りを教えていなかったのは、元来、イエスは祈らなかったからだろうと思います。
イエスが祈っておられた、という記事はありますけれど、たとえば、ゲッセマネの園の祈りの場面では、弟子たちはイエスの言葉が聞こえないほど離れていました。イエスの祈りを近くで聞いた人はいません。考え事をしていた姿を、祈っておられる、と勘違いされただけかもしれません。
多くの人が、イエスの祈る声が聞こえたと感じたのは、イエスが十字架上で最後に叫んだ時でした。「我が神、我が神、なぜわたしを見捨てたのか」とイエスが叫んだと記録されております。
残念ながら、主の祈りに特徴的な「アッバ(パパ、お父ちゃん)」ではなくて、イエスは「我が神」と呼びかけたことになっています。不思議です。ここに謎を解くための鍵がありそうです。
【祈りは人間の本分か】
人間が祈るのは当然だとみなさんは考えておられるようですが、今のぼくには不自然に思えます。
イエスの祈りの語りかけの言葉「アッバ」とは何なのかを考える前に、「祈り」とは何なのかを確認しておく必要がありそうです。
災害の後では必ず黙祷という号令と共にみなさんお祈りなさいますけれども、何に向かって祈っているのかぼくには疑問です。これは宗教的な営みだと思うのですが、こんなところに宗教が出てくる背景には、人間の恐れがあると思うのです。
人智ではどうにもならないと考えた人間は、人智を超えた何かに縋(すが)りたいから祈るのでしょう。災いを避け、幸いを求める気持ちが人間に祈りを誘発させるのだと思います。神であれ仏であれ先祖であれ、人智人力の及ばないところからの助けを求めて人間は祈るのでしょう。しかし、人智を超える助けがあるのならば、祈っている人々はもう少し幸せに暮らしているはずです。祈るか祈らないかに関係なく、人智を超えた所からの救いなど無いのが事実です。
救いを経験したと証言する人がおられるのも確かです。しかし、ほとんどの人はそうではありません。祈りが叶えられた人は、宝くじの当選者に似ています。当選者は確かにいます。けれども、ほとんどの人はハズレです。宝くじを買わなければ当選確率が無いのと同様に、祈らなければ願いは叶わないということでしょうか。
しかし、毎日朝晩祈っているのに、願いが叶わない人が大勢おられます。「いつになったら願いが叶うのか」と怒ってもいいようなもんですが、神を怒らせるとまずいと思うから、おとなしく祈っているだけのようです。願い事には鈍感なのに、恨みの言葉にはすぐ反応する神を信じるなんて、滑稽(こっけい・ばかばかしい)です。
人生の岐路(きろ・分かれ道)に立った人が祈るのは、占いに似ています。どうすれば「良い」かを自分で決めかねた時に、占いに頼るようです。望ましい結果を受けたいと願う気持ちは理解できますが、何が良いか悪いかなんて、占い師にも誰にも判りません。失敗だと思ったことが、成功につながることもあるのですから、Aを選べば成功、Bを選べば失敗なんて、言い切れません。
経験値から言わせて貰えば、願い通りにトントン拍子に願いが叶うことなどまずありません。
別の選択肢を選んでいれば、現状と違う結果になったと想像できますけれども、それが現状より良いとは言い切れません。
善良な占い師は善良なカウンセラーのようです。最近のカウンセラーは相談者の話を傾聴してくれます。話すことによって相談者が問題点を整理して自分で解決策に気づくのが良いカウンセリングだと言われます。本を読んだり、海千山千の人に聞くのもいいでしょう。しかし、いくら良い相談相手に巡り会えたとしても、誰かの考えを鵜呑みにするか否かを、最後に決めるのは自分です。鯔(とど)の詰(つ)まり、行き着くところは自分の決断しかないのです。そうであるならば、自分の感覚で自分の責任で物事を考え抜いて決めるという覚悟を最初から持つべきなのです。
どんなに決断力がない人でも、結局は自分で判断しているのです。たとえば、電話による振り込め詐欺だとか、フッシング詐欺を阻止する方法は確立していて、詐欺にかからない情報が流されているにもかかわらず、騙される人が後を絶たないのは、弱い人間の判断力をさらに麻痺させて、服従させようと狙っている人の言葉に流されるからです。人間の弱さを引き出してそこに付け込んで、服従させる組織の最も古い形態が宗教です。
【イエスは神に祈らない】
先週はルカによる福音書が記録している「主の祈り」の冒頭に書かれている「父よ」という呼びかけが、ユダヤ教の神に対しての呼びかけではないと言いました。目に見えないユダヤ教の神に対する祈りでないことを強調するために「アッバ(パパ・お父ちゃん)」と語りかける祈りをイエスは弟子たちに教えたのだろうと言いました。
神でない「アッバ(お父ちゃん)」って誰のことかという疑問にいよいよ答えましょう。
十字架上でイエスは「アッバ」ではなく「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか」と祈ったと伝えられています。しかし、こんな状況に追い込まれたイエスが、神を対象に祈るでしょうか。これは素直な祈りじゃなくて、むしろ、なぜ私を見捨てるのかという恨(うら)みと呪いです。神がいるのなら、なぜ殺されなければならないのか、という告訴(こくそ)です。理不尽で納得できない殺害をただ見ている神を呪っているのです。イエスに神なんかないことの証拠です。
【ぼくたちは】
このように、イエスの祈りは自己主張であり、決意表明であり、願いなのです。こんな祈りを聞いている神はありません。祈りは人にしか届きません。ぼくたちが会衆の前で祈るのは、会衆に対する自分の意思表明です。
ぼくたちの祈りの対象は、聞いていてくれる人です。神や仏や先祖に対してではなく、生きている人に向かって祈ればいいのです。そうだとすれば、イエスが教えた祈りの対象である「アッバ」とは、目に見えない存在ではなく「人間」です。
イエスを十字架につけよと叫んだのも人間です。病人を罪の呵責から解放するために赦しを宣言したのも人間イエスです。人の善良さを引き出す祈りは人に向かってすべきなのです。このような人への祈りが現状を変えるのです。