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「すべて赦される」20220605
「すべて赦される」20220605
聖書 マルコ 三章二十節~三十節
先週も言いましたように、今年七十歳になりました。そして、先週の五月三十日は父の命日でした。それから二十年経ちました。父が亡くなったことをきっかけに前の仕事を辞めたお陰で、西野バプテスト教会の牧師になるように導かれました。人は死ぬ時にも大きな仕事をするものです。ぼくは父から大切にされていました。しかし、イエスの周りには、社会からも身内からも見放された人々が大勢いたのでしょう。だからイエスは目の前に居る人々に「君こそ、母、兄弟、姉妹、なのだ」と優しく声をかけたようです。
独自に活動を始めた頃からイエスは差別しない福音を述べ伝えながら多くの病人を癒しました。こういうことって喜ばしいことだと思っているでしょうけれども、そう思わない人もたくさんいるのです。
教会では、イエスは神の力によって数々の業(わざ)をなさったと、信じられています。しかし、「あの男は気が変になっている」という人々の噂を聞いた「身内の人たちはイエスを、取り押さえに来た」(マルコ三章二十一節)と書かれているように、母マリアや、兄弟姉妹たちでさえイエスを信頼していなかったのです。
さらに、病人を癒したイエスを見た律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取り付かれている」と言ったのだそうです。ベルゼブルとは悪霊の頭(かしら)の名前だそうです。だれがこんなことを考えよるんでしょうね。
【目撃者の反応】
「悪霊に取り付かれている」と非難されただけでなく、「罪人の仲間だ」「大酒のみだ」「大飯食らいだ」「気が変だ」「神を汚している」とまで言われていたのです。これがイエスを目撃した人々の偽らざる反応だったのです。
これってびっくりしますでしょう。現実はこんなもんです。イエスをスーパースターのように考えていたのは、ぼくらの思い込みです。
【直接会ってもイエスを理解できない】
タイムスリップするドラマが結構ありますけれども、あんなふうにイエスの近くにぼくらが行ったら、どうなるでしょうか。「イエスは聖霊によって働いておられるんだ」と思えるでしょうか。そうじゃなくて、常人ではないと思うはずです。天才だという意味じゃなくて、天才と紙一重のキチガイの部類に入れるだろう、と思います。
生活改善の努力もしない人に「あなたの罪は赦された」とイエスは宣言したり、病気を治してやったり、伝統的な律法解釈を無視して「安息日は人のためにあるんだ」と言ったんです。こんなイエスを見たら、タイムスリップしたクリスチャンでも、イエスを責める側になると思いますよ。みなさんが一般的な社会通念を持っておられるからこそ、イエスの仕草を目の当たりにしたなら、理解できないように思います。イエスの福音はそれほど理解しづらかったはずです。
イエスと同じ言葉を言うぼくが、多くの教会で悪霊呼ばわりされるのと同じです。
イエスに直接お会いしたい、と願う信者は多いのですが、会ってみればがっかりしたり腹を立てると思います。それほどイエスの言葉は過激だったんです。
【イエスの主張】
「ハッキリ言っておく(アーメン、私は君たちに言う)、人の子らが犯す罪やどんな冒瀆(ぼうとく)の言葉もすべて赦される。しかし聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言いました。
しかしこの中で本当に大切な部分は前半部分だけです。すなわち、「アーメン、ぼくは言っておくぞ。人の子らが犯す罪も、神を冒涜するどんな言葉もすべて赦される」という言葉です。どんな罪も赦される、とイエスは教えました。しかも無条件です。このようなイエスの教えは一般通念に反します。非常識です。人々がイエスを「悪霊付き」と呼んだのももっともです。しかし、常識はずれのこのような言葉によって人は救われるのです。
【聖霊も悪霊も関係ない】
法律の専門家たちが、悪霊の存在を信じていたのかどうかは判りません。ただ彼らが、イエスを批判するために悪霊の話しを持ち出したもんですから、イエスも「病人を癒やすことを悪霊のしわざだと言うなんて、聖霊を汚す言葉は許されねえぞ」と脅してやったんでしょう。「霊」の話しは、なぜか恐れを感じさせます。法律の専門家たちも良い気はしなかったでしょう。いずれにしても、悪霊だとか聖霊だとかは、イエスにとってどうでもいいことです。法律の専門家たちが、悪霊の話しに掏(す)り替えたから、「聖霊を馬鹿にすると、赦されねえぞ」と切り返したに過ぎないと思います。
ですからみなさんは、「聖霊」という言葉を気にして、「聖霊を冒涜する事」だけは赦されない、などと恐れる必要はありません。
論理的な議論ができなくなった人が、悪霊という言葉を持ち込んだだけです。このような人に対して、イエスは聖霊という言葉を使って「からかった」に過ぎないのです。
聖霊の存在を信じている人は悪霊の存在も信じているでしょう。しかし両方とも、人間が作った概念です。概念にしか存在しないものです。
「神を冒涜しちゃいけない」とか「神に逆らう罪を犯しちゃいけない」という法律は、神を知らない偉い人が身勝手に作ったものです。人が作ったこのような常識は被差別者や罪人を作るだけです。常識や信仰心こそが、自分を罪人だと認識する病気を蔓延させるのです。人が作ったこんないいかげんな法律に違反しても、神の罰なんか受けない、全部赦されるのだ、とイエスはおっしゃっただけです。
勝手に法律を作り、小さな違反も赦さないような神を教える法律の専門家たちに対して、人を縛り付ける法律を押しつける神など居ないから、ぜんぶ赦されるのだ、とイエスは言い返しただけです。だからぼくたちも、神を怒らせないようにしなくてはならない、などと恐れなくてもいいんです。
病人であっても、障害者であっても、何も出来ない老人になっても、仕事ができない子どもであっても、規格外であっても、そんな人を差別する法律なんか無意味だから、無視して良いのだというのがイエスの主張です。
そうです。人を大切にしない神なんかいるはずありません。自分に逆らう者を罰するのは神じゃなくて偉そうにしている人間です。
【ぼくたちは】
神を大切にしない人を罪人だと勝手に認定しているのは人間です。そんな人間をイエスは認めません。ぼくたちも認めなくてよいのです。
イエスは徹頭徹尾、人を大切にします。一人前の人や優れた人でなくても、文明社会が人間扱いしていない人でも、イエスは大切にしました。
人を大切にしない文化が長く続かないことは支配者たちが作ったいいかげんな歴史でも証明しています。ですから、すべての人を大切にするイエスの福音は、これからの文明社会にとっても大切な指針なのです。ぼくたちは、誰にとっても大切なイエスの教えを知らせてゆきましょう。