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「復活と事実」20220417

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「復活と事実」20220417

聖書 マルコ 

 

 今日は、昨年二〇二一の復活祭にあなたをイエスに思えると題して話した説教を簡潔にまとめなおすことにしました。ページあった説教の分量を年八二十九から、四ページ減らしているので、直接関係ない部分を切り取ればいいだけです。もちろん深めました。

 

【復活祭】

 イースターと呼ぶ人が多いですが焦点がボケますのでぼくは復活祭と言っております。キリストの復活を祝う日だと説明する方が多いのですが「キリスト(選ばれし者)」は宗教的な称号です。「イエスキリストである」と告白したキリスト成立した後に言い得る表現ですから、この時点ではイエス復活と言うべきでまたイエスは死んで蘇(よみがえ)って下さったと表現なさる方が多いですが、誤解です。イエスは殺され、復活させられた」と受動態で書かれています。

 

【生き返ったんじゃない】

 さて、とにかく今からマルコが伝えたかった復活の真髄をお伝えします。覚悟して聴いてください。殺されたイエス個人として生き返らなかったということです。

 マルコ福音書に対立する三つの福音書は殺されたイエスが生き返ったと主張するために、マリアや弟子たちに、生前のイエスが姿を顕(あらわ)した言います。三つの福音書に登場する復活のイエスは、どこからともなく現れたり消えたり壁をすり抜けたりするので、生前のイエスとは違う身体ですから現実的じゃありません。現実的なのはイエスを決して生き返らせないマルコだけです。

 

【弟子たちはイエスの死を見届けていない】

 特筆すべきことに、イエスの殺害を見届けていたのは女たちだけで、弟子たちは見ていません。しかもイエスが死ぬ瞬間を誰よりも近くで看取ったのはローマ軍の百人隊長だとマルコは言います。十字架上で息を引き取ったイエス弟子たち不在の中でローマの隊長「本当に、この人は神の子だった」とマルコは告白させました。当時の教会を代表していた弟子たちマルコが批判している証拠です。

 ところでイエスが十字架にかけられているゴルゴダの丘の状況を想像してみれば判るように、隊長の呟(つぶや)きなど、誰にも聞こえなかったはずです。そうだとすれば隊長く場面は福音書著者マルコ創作逸話(いつわ)だと思えますすくなくともこの時点で、弟子たちの誰も「イエス神の子であった」と告白しいないことは確かです。

 

【十字架事件に続く日曜日の明け方】

 マグダラのマリアが、イエスが葬られた洞穴状の墓の中に入ると、右側に白く長い衣を着た若者を見つけます。その若者「君たちは十字架につけられたイエスを探しているけれども、あの方は復活させられて、・・・あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。・・・そこでお目にかかれる、と弟子たちとペトロに伝えなさいと言ったのですが、恐ろしくて墓から逃げ出した女たちは「誰にも何も言わなかった」という言葉でマルコは終わっています。弟子たちは女たちから伝えられもしていません。弟子たちは登場せず、何の役割も果たしていません。これもマルコの弟子批判の現れでしょう。

 しかし、イエスが復活の姿を現さないならば、マルコにとって、イエスの復活とは何なのかという疑問が出てくるでしょう。それでは考えてみましょう。

 

【民衆の反応】

 マルコ福音の初めのほう(マルコ一章十四節)「ヨハネが捕らえられたから、イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音をのべつたえた」と書かれています。新た活動を始めたイエスは、自分がどのように受け止められているかを気にしたのでしょう。「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねました。すると、「洗礼者ヨハネだと言っています」他に「エリヤ」だと言う人も、「預言者の一人だ」と」いう人もいます、と弟子たち応えます。そこで、「君たちはわたしを何者だというか」と尋ねたイエスに「あなたはメシアです」とペトロが答えた(マルコ八章二十七節〜二十九節)ということです。の場面でマルコが本当に伝えたかった、イエスを「洗礼者ヨハネだ」と答えている事実です。弟子ペトロの告白じゃありません。

 

【ヘロデの反応】

 もっと決定的な告白がヘロデの言葉として残されています。イエスを見た民衆が「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったんだ。奇跡を行う力が彼に働いているのはそのためだ」とか「彼はエリヤだ」「昔の予言者らしい予言者だ」と噂(うわさ)しているのを聞いたヘロデは、誰よりも明確な言葉で「わたしが首を刎ねたあのヨハネが生き返ったのだ」(マルコ六章十四節〜十六節)と言ったと書いてあるのですすなわち、イエスは殺されたヨハネが生き返った姿そのものだという意味です。もちろん百人隊長の逸話と同様に、ヘロデの言葉を聞いた人などいないので、マルコヘロデに言わせた言葉ですなわち、マルコにとって復活は、殺された人がまるで生き返ったかのように別の人が活動していることです。殺された人が生前の姿を採って生き返ってくることではけっしてありません。

 

【弟子はガリラヤに行かなかった

 マルコは福音書の最後に、「ガリラヤに行けばイエスに会える」という伝言を残しました。もちろんイエスの言葉ではありません。墓に登場させた天使のような若者に言わせた言葉です。

 イエスが殺害された後のガリラヤでは、殺されたはずのイエスが生き返ったんじゃないか、と思える出来事が再び起きている。だから見に行け、とマルコは天使の口を通して弟子に言っているんです。

 マルコがこのような仕方で、弟子たち促(うなが)さなければならなかったのは、マルコが福音書を書いた時代(四十年後)の弟子たちがガリラヤという現場から離れていたからでしょう。

 民衆が圧政を受けているガリラヤで、イエスが起こしたような事件を引き継いでいる人たちがすでにいにもかかわらず弟子たちは助けに行っていなかったからでしょう。そういう弟子たちと、彼らが造った教会をマルコは批判していると思います。

 

【ぼくたちは】

 「復活」というキリストの教義をそのまま信じ込む必要はありません。むしろそんなこと不可能だと思います

 イエスが殺された後にも、イエスのように生きている人がいて、「あれは殺されイエスが生き返ったような人だ」と告白されていれば、その事実を見ることができれば、それで十分です。事実(真実)である福音伝えイエスが殺されても、福音を受け継別の人が興(おこ)されてくる事実がある。これがマルコが伝えた「イエスの復活」です。復活ぼくたちの生き様直接関わっている、というのがマルコの主張であり、ぼくも認ることです。

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