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「さあ食べましょう」20210221
「さあ食べましょう」20210221
聖書 マタイ福音書 六章九節~十三節
プレビアス(前回は)
イエスの祈りはパンを分け合うことだと言いました。
先週の説教について話し合ったり、ぼくの考えをどのように伝えたらいいだろうとまとめていて、簡単な言葉に辿(たど)り着きました。
イエスの祈りを言い替えれば「さあ食事ですよ、みんなで食べましょう」という呼びかけみたいなもんです。簡単でしょう。
【飽食の中の飢餓】
戦後日本の経済発展に連れて、一九七〇年(昭和四十五年)頃から、食文化が大きく変化しました。大型外食産業が出来たり、輸入食材も増えて、飽食の時代なんて言われるようになりました。現在では、食材がそのまま捨てられていることがニュースに取り上げられておりますけれども、同時に食事に与れない子供たちが居ることもニュースに取り上げられています。社会の仕組みが矛盾しているからでしょう。いまだに、飽食の時代だなんてぼくには思えません。
東京で学生だった頃に、売れ残ったフライドチキンは一定の時間が経過すると捨てられるのだ、という情報をKフライドチキンでアルバイトしていた友人から聞いて驚いたことを思い出しました。捨てるんだったらもらってきてよ、と言ったぐらいに、ぼくら寮生の実情は、お腹が空いていたんです。もちろん、企業としてはそんなこと出来ません。
食べることができる食材が捨てられている一方でお腹を空かせた人がいる。こんな現状を飽食とは言えないでしょう。
一九五二年生まれのぼくが小学生の頃は、今では考えられないほど、食材はありませんでした。輸入食材なんてデパートに行けばあったのかもしれませんが、大阪の公設市場では見た覚えはありません。
高校生の頃に、姉が天王寺まで、ピザを食べに連れて行ってくれたのを思い出しました。それまで食べたことのない、とろけたチーズが載ったピザを初めて食べたのは十八歳だったんです。
その頃から、企業の都合で捨てられる食品も多くなって、飽食の時代だなんて言われていますけれども、たかが五十年間くらいのことです。現在でも、その日の食事に困っている人がたくさんいるのは解せない現象です。
とは言いましても、今の日本は、どこに行っても食料があるほど豊かな国です。社会全体に食べ物の備蓄がありますから、被災地に水や食料がすぐに届けられます。
そういう意味で、今日のパンはもちろん、明日のパンにも困っていない今のぼくたちは、「今日のパンを下さい」という祈りの言葉の重さを理解できません。
イエスの祈りの背景には、明日のパンどころか、今日のパンが無い人々が、居たんでしょう。ぼくたちには見えていない貧困や飢餓状態で生活している人の切羽詰った祈りです。
ぼくたちが食事する時には、食べ物を目の前にして「与えられた食事を感謝します」と祈りますけれども、主の祈りにある「今日のパンを下さい」という祈りは、食べ物をどこから調達してよいか分からない人の言葉です。
支配者だけが動けないほどブクブク太っている。にもかかわらず、国民には、満足できる食べ物が無い。そんな国があることからも判りますように、権力を持った支配者や利権者が食べ物を独り占めするから飢えた人々が生まれます。
どの時代にも、自分勝手な支配者が登場して、国民や占領した国から食糧や財産を奪ってきました。今の日本でも世界でも、社会構造的には同じことが行われています。しかしその程度じゃなく、ローマに占領されていた二千年前のユダヤの民はもっと苦しんでいたはずです。
自分のため国民を犠牲にするような支配者の国じゃなくて、今日のパンを与えてくれるような神様が采配(さいはい/指図)してくださる国が来ますように、という切実な願いが「主の祈り」には込められているんでしょう。しかし、いくら願っても、直接応えてくれる神はいない、というのが事実です。「神は直接応えて下さらない」とぼくは言っておりません。「直接応えてくれる神はいない」と言ったんです。問題発言です。
【人々の間でパンがあふれ出た】
五千人の餓(う)えた群衆に、イエスがパンを分けた事件(マルコ六章三十五節以下)の時に、イエスは弟子たちに向かって「君たちがパンを与えなさい」(三十七節)とおっしゃった経緯(いきさつ)が描かれております。
たとえ金があったとしても、荒野ではパンを買うこともできませんよ、と悪態ついた弟子たちの手元に有ったのは、五つのパンと二匹の魚だけでした。そうであるにもかかわらず、イエスはそれらを裂いて弟子たちに配らせなさったのだそうです。
とにかく、持っている人が、持っていない人に食べ物を分け始めると、全員に配ることができた、と書いてあるんです。でも、イエスが裂くと、一つのパンが二つになったんじゃありませんし、天から降って来たんでもありません。
パンは、人々の中から出てきたんでしょう。食の問題を解決する道はこれだ、ということなんじゃないでしょうか。
ちょっと具体的な話をしましょう。ぼくたちは木曜日の聖書楽講座の後、昼食を共にしています。
ぼくはほとんど何も持参しないんですが、食事を準備してきて下さった方々が、テーブルの用意もしてから「準備できましたよ。食事にしましょう」と声をかけてくださいます。持参品がない人も、そこにいるみんながテーブルに就いてみんなで分けて食事を始めます。
「今日のパンを与えてください」という言葉は、ぼくたちにとっては「さあ食べましょう」という食事の合図みたいなものです。
【お互い様】
さて、「主の祈り」の後半部分です。
ルカでは「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっています。しかしマタイは、宗教的な漠然とした概念的な罪という言葉を使っておりません。金の貸し借りという具体的なことで、人間同士の「関係が壊れている状況」を例にしています。これは重要です。
この祈りの言葉を読んで、仲間の借金を許さなかった男の譬え話(マタイ十八章二十一節~三十五節)を思い出しました。
一万タラントンの借金を返せないことで王様から免除してもらった家臣が、百デナリオンを返さなかったことで友人を牢屋にぶち込んだという話です。
一タラントンは六千デナリオンですから、一万タラントンは六億デナリオンです。
労働者一日の賃金がデナリオンということですから、日給一万円で換算しますと、六億円を帳消しにしてもらった男が、百万円を返せなかった友人を許さなかったという内容です。数えられないくらい見逃してもらっている人が、他人の負債は許さないということを極端に表した譬えです。
極端な譬え話を用いて、人間のそういう性質を、イエスが批判しているんです。
マタイでは「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていますように、赦し赦される関係が、多方面に同時に成立しなければならないことが示されていると思います。
人間は皆、他者から赦されている。受け入れられている。愛されている。認められている。すべて赦されているからあなたは生きているのだ。人間が生きていくには、お互いに認め合わなければならないんだ、という理解は、人間関係を構築していくために必要なことです。
【誘惑に負けないという自戒の言葉】
最後に「誘惑に遭わせないで下さい」とはどういう意味か考えておきましょう。
マタイには、「誘惑に遭わせず、悪い者から救い出してください」とあります。悪魔のような悪い者が出てきて誘惑するような感じがしますけれども、悪魔のような第三者がいるわけありません。誘惑は本人の心の葛藤だと思います。
どんな誘惑が起こってくるかというと、人は強い立場になると、自分よりも弱い相手を支配したくなるという誘惑です。
この年になると、いろんなことが判るようになりました。経験の少ない若者の心の動きなどは十分に読むことができますから、そういう人を誘導したり騙すことさえ難しいことじゃありません。しかしそんなことをすれば、自分だけに利益誘導してきた過去の支配者たちと同じになってしまいます。だからそんな誘惑に陥らないようにしよう、と自分を戒めているんです。
【祈りとは】
このように、祈りとは多くの人が勘違いしているようなことではありません。賽銭(さいせん)箱にほんの小額を投げ入れて、自分に都合のいいことを願うことでもありません。
そんなことであなたのために働いてくれる神様なんか居るわけありません。
捧げ物を必要としている神が居るわけないじゃありませんか。どれだけ捧げるかを試す神様も居るわけありません。冷静に考えれば判るように、そんな神様は、捧げ物を喜ぶケチくさい指導者が作り出した虚像です。
【イエスが教えた祈り】
最後に、もう一度イエスの祈りをおさらいしておきます。「お父ちゃんが支配する国が来ますように」というイエスの祈りは、どんな人間も支配者になれば身勝手になるものですから、そんないい加減な人間が支配する社会がなくなりますように、という願いです。言い換えれば、いい加減な人間を支配者にしませんという決意です。
日ごとの飯を求めることは、一緒に食べようと互いに声を掛け合うことです。そして、自分よりも力の弱い者を支配しないという自戒です。
【ぼくたちは】
ぼくたちは、素直な気持ちを表現できるように、天というよりも空に向かって祈る形をとっていますけれども、天の上の誰かに祈るのではありません。天よりもさらに高い所に住んでいる誰かが、すべての祈りに応えて、願いを叶えてくれることなどない、という事実はみなさんが体験してきた通りです。そんなことなら、祈る必要などない、と思うかもしれません。
しかし、祈りは、ぼくたちが本当の願いを、共に居る人に聞いてもらう作業です。そうであれば、それぞれの願いを、お互いの間で叶えていくしかないと判るはずです。
素直な願いを天に向かって祈りますけれども、天の向こうに誰かが居るわけじゃありません。願いを、聞いているのは、共にいる人々です。ですから、互いに語り合い聞き合い協力するために祈るのだと覚悟して祈りましょう。