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「嫁タマルは策略で乗り越えた」20191110

「嫁タマルは策略で乗り越えた」2019年11月10日

「嫁タマルは策略で乗り越えた」2019年11月10日

 

聖書 創世記 三十八章十三節~十五節

 

 人は苦労するために生まれてきたようなもんだ、と先週言いました。どんな生物も、生きるために、そして種(しゅ)を残すために努力しているんですから、苦労することは、生物が負っている使命なんです。さらなる苦労は、努力しても報われないことがたくさんあることから生まれます。そんなことで苦しんだり悲しみを味わうのも、人の定めでしょう。

 個人的な悩みもさることながら、そんな個人が集まりますと、社会的な諍(いさか)いが起こりまして、苦しみが倍加します。

 人間社会の最も根源的な「すれ違い」(罪と訳される言葉は、的外れ、すれ違いのこと)は、創世記の初めに記されているように、一人の男と一人の女から始まっています。男と女、異なる性を持つ個人が協力して最小単位の社会を形成しているのが人間です。地球四十六億年の中で、生命誕生後に、このような社会を形成する生き方を選んで繁栄してきたのが人間です。ですから、人間が楽しく生活するには、男と女の協力関係に力を注ぐしかないわけですが、考え方も感じ方も違うもんですから、初めからうまくいかない種を持っているんです。

 人が二人いるんですから、しかも男と女ですから、それだけで意見の食い違いが起こります。自分の考え方を通したい、とそれぞれが思うんですから、すぐに諍(いさか)いが起こり、上下関係も生まれます。そんなカップルがたくさん集まって社会を構成しているわけですから、どんどん複雑な社会関係ができてしまうんですね。しょうがないことです。

 それぞれのパートナーが、一対一で問題解決を図るのが一番手っ取り早いんですけれども、弱い個人はどうしても連(つる)んでしまいます。そこで、男グループと女グループができたりします。

 

【男社会は腕力で作られた】

 平均的に腕力が強いのは男です。個人的には、女子プロレスの選手のように強い女もいっぱいいるので、あくまでも平均的な話ですけれども、腕力が強い男が中心になって、男に都合のいい社会構造を作ったようです。

 文化の発展とともに、近代になって、ようやく女の力が大きくなってきました。体力が優ってきた、ということじゃなくて、「なんで女には決定権が無いのか」とかね、女がいろんな疑問を持つようになったんです。女が自立してきた証拠です。文化水準が低いところでは、女の自覚が足りないために、自己主張ができないまま、女が押さえ込まれているのが現実です。女には学問させない国が今もたくさんありますのは、女が自立できないようにさせておくためです。これも、男が優位を保つための、男の策略なんですね。

 日本でも女性参政権が認められたのは、一九四五年の衆議院議員選挙法改正以降ですから、欧米諸国より百年前後も遅れていたことがわかります。しかもGHQの指示があったからだそうです。

 現状でも、まだまだ男が幅を利かせています。そんな訳ですから、古代に書かれた聖書は、男中心の社会で作られた書物だということを念頭に置いて読む必要があります。つまり、男を擁護するために書かれた文章が多いので、注意しましょう。

 ちなみに、モーセが書いたと言われる五つの書の一つ民数記には、各部族の勢力を調べた結果が載せられております。けれども、そこに示されている人数は二十歳以上の戦争に出られる男の数です。これが部族の勢力の大きさを表していました。女や子供は数に入れられておりません。武力の数や大きさだけに注目するのは、偏った見方です。そんなことでは本当の国力は測れないんですが、そんなことがまかり通っていました。

 現代の兵器にも燃料が要るように、兵隊にも食料が必要です。生活を支えてくれる社会基盤があってこそ、本当の力になるんです。

 ですから、目立たない存在として描かれてきましたけれども、実際には、女の力は大きいんです。

 

【実際は女が強い】

 仕事だ戦争だと言って男が遠くに行っている間に子供や年寄りを食わせて、命を守っているのは女です。女の働きがあるからこそ男の働きが支えられていたんです。

 未来の国民の命と食べ物を握っているのが女ですから、実際に実権を握っているのは命を生み出し育む力を備えている女です。人間社会が始まって以来、本来の意味で、社会や家族を守ってきたのは女です。形式上は男の力に抑え込まれているかのように振舞っていたとしても、女はしたたかに実権を握ってきた、とぼくは考えています。

 

【女を隠すことはできない】

 先ほど言いましたように、聖書は男社会で書かれたもんです。しかし、女たちが登場しています。実際の働きを担ってきた女を登場させすには済まなかったんだろうと思います。

 しかも、先週話したように、際立った形で、女が登場させられております。非常に困難な状況に置かれながらも、それを乗り越えた女たちを、マタイは系図の中に紹介しております。

 その女たちが系図に載っているということは、現代に続く重要な役割を、その女たちが担って来たことを現しています。

 すなわち、その女たちがいなければ、現在はないということです。

 

【系図の中の女】

 マタイ福音書の初めに、イエスの男系の系図が書かれています。基本的に男の名前が列挙されていることから判るように、男中心です。しかし、面白い事に、イエスの母マリアの話に行く前に、四人の女を登場させています。今日はその最初に登場するタマルについて考えてみます。

 

【タマル】

 ユダは、ヤコブの息子でイスラエル十二部族の一つ、ユダ族の族長です。このユダがタマルとの間に子供を儲(もう)けたと書いてあるんです。

 読み過ごしてしまえばそれまでですが、実は、引っかかっていいはずの表現です。なぜなら、タマルという名前の女は、ユダの妻じゃなくて、ユダが長男のために迎え入れた嫁だったからです。すなわちユダ族の後継者は、ユダと嫁との間に生まれた子だった、ということがはっきり書かれているわけです。話がややこしくなってまいりましたでしょう。ちょっと引っかかる話なんです。

 

【タマルが背負わされた状況】

 ユダの長男はタマルと結婚した後で「主の意に反したので主は彼を殺された」と書いてあります。ああそうなんだ、と思った人もいるはずです。しかし、「主の意に反したので主は彼を殺された」とは聞き捨てならぬ解釈です。

 それはさておき、昔は日本でもあったようですが、当時の制度によって、ユダは次男に嫁タマルを与えました。次男は、子供ができても、その子が長男の子供になる制度であることを拒んで、精液を外に漏らして子供を作りませんでした。次男のオナンが故意に子供を残さなかったという理由で、主は彼も殺してしまった、という承服しがたい解釈が書かれています。オナンは自慰行為をした訳ではありません。にも関わらず、この次男の名前にちなんで、自慰行為をオナニーと言いますのは、オナンに対する不当な扱いであると思います。

 しきたりに従えば、次はユダの三男シェラに嫁タマルを与えて長男の子を産ませなきゃならないことになります。しかし、三男まで死ぬんじゃないかと恐れたユダは、三男が成人するまでまだ時間があるから、という理由をつけて、三男から遠く離しておくために、タマルを実家に戻してしまいました。

 昔からのしきたりと言え、ユダの考え方と言え、本当に男社会の身勝手な考え方です。けれども、嫁タマルもしきたりには逆らえなかったし逆らうつもりもなかったので、言われるままにしたんですね。

 時が過ぎまして、三男シェラが成人したにも関わらず、タマルは呼び戻されませんでした。そこまでされて、男たちの仕打ちを学習したタマルはようやく騙されていることに気づいたようです。男たちの言うことを聞いていては、自分はこのまま葬られてしまう、と思った嫁タマルは、ようやく、ユダに反旗を翻すつもりになったんでしょう。嫁タマルが女タマルになった瞬間です。

 

【命がけのタマルの策略】

 ちょうどその頃、羊の毛を刈るためにユダがティムナという所に行くという情報がタマルにもたらされました。策を練ったタマルは先回りして、娼婦のような出で立ちでユダを待ち伏せました。

 あんのじょうユダはタマルの誘いにのって彼女の所に入り、タマルは姑(しゅうと)ユダによって妊娠しました。

 これでタマルは安泰、という訳にはいきません。数ヶ月後に、嫁タマルが妊娠している、という噂を聞いたユダは、タマルが父の判らない子を宿した、と早とちりして「その女を引きずり出して焼き殺してしまえ」と言ったんです。

 タマルの策略は命がけだったんです。ただし、タマルは、ユダをぎゃふんと言わせる証拠の品を持っていました。質物(しちもつ)として預かっていたユダの印象と杖です。それをしゅうとに見せて、私はこれらの持ち主によって妊娠しました、と言ったんです。

 ユダが気の弱い正直な人だったからよかったものの、そうでなければ、「私には覚えがありません」と言ったかもしれません。みだらな女だと判断されたら、しきたりによって殺されるところです。

 しかし、タマルが宿しているのはユダの子だ、とタマルから指摘されたユダは、それを認めました。確たる証拠なんてないんですけれどもね。

 タマルの責任にしていたことを、ユダは自分の責任だと認めたんです。

 

【ぼくたちは】

 タマルの物語は、綺麗事じゃ済まされない、悍(おぞま)しい事件でしょう。しかし、悍しいという理由で事実を避けて通っちゃ、深い意味を理解できないんです。たとえ悍しいことであっても、現実の中にこそ救いがあるからです。

 タマルは、ユダを策略にかけてまで、ユダの血を引く子供を産もうとしたんです。そして、結果としては、ユダの子孫を残す責任を、ユダ自身に取らせることができたんです。このように、タマルは、命がけで、自分の責任を果たし、自分の生きる道を自分で切り開いたんです。これほどの女が居た、ということが、とても短い文章で、系図の中に、すらっと書かれているのが面白いですね。

 タマルの訴えを正面から受け取ったユダは、自分の責任を取ることによりタマルを解放しました。救いが実現したんです。これで十分だと思います。神や聖霊の直接介入も必要ありません。

 ぼくたちも事実をよく見て、事実の中に救いを見つける者になりましょう。

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