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「供物を求める神はいない」20220507
「供物を求める神はいない」20220507
聖書 マルコ 二章 二十三節〜二十八節
先週は「時間のない特異点に神は存在しなかった」と題して説教しました。物質、空間、時間が存在しない時点では、どんな概念の神であっても存在しえません。もっとはっきり言えば、宇宙を誕生させた神などいないのです。神という概念は千差万別ですが、どんな概念の神であろうが存在しえません。人間が作った神話の中だけに宇宙を創造した神は存在しうるのです。
ここまではっきり言っても、多くの人が神話から自由になれないのが現実です。神を恐れなければならないという感覚が、幼少の折りから思考の深いところに刷り込まれたからでしょう。
このように刷り込まれた概念を否定して、どんな概念の神も存在し得ないという科学的結論を認めるだけで、神を恐れることから解放されます。ところが、そんなことを考えるだけで不謹慎で罰(ばち)が当たるように感じる人が多いのです。それほどまでに、人間の心は神への恐れに根深く囚われています。本当に恐ろしい状態だと思います。
【神に服従させるために律法を定めた】
神を怒らせて罰を啖(くら)うことがないように、できることならば神を喜ばせて五穀豊穣家内安全のお恵みをいただくことができるように、という願いから、祈ったり捧げ物をする生活習慣が身についたのでしょう。
力の強い者や征服者が何を望むか判らないように、神は何をするか判らない暴君のようなものだと想像して恐れているから、祈り奉(たてまつ)り捧げ物をしなきゃならないと考えたことは理解できます。しかしそんな恐ろしい神が存在するという感覚こそ妄想なのです。
【神からの律法は人間の法律ではない】
妄想の恐ろしい神に仕える生活の仕方は神からいただいた律法に書かれているという理由で、ユダヤ教は律法を大切にするように、と民を指導しました。神から与えられた律法というものは、人間同士の関わり合いを規定するために作られた法律とは異なります。律法が作られた根底には、神の存在があるのです。要するに神に喜んでもらうために定められた生活習慣のようなものです。神に喜ばれるであろう生活習慣などというものは、当然、人間が想像して作ったものに違いありません。しかし、それを権力者が社会の慣習に定めたものですから、民衆は律法に従わざるをえなかったのです。
律法は単なる宗教的な決まりとして護らされたのではなく、人間の権力者によって強制的に護らされたために、律法に沿った生活をするように求められた民衆は苦労させられたのです。
【イエスは律法違反で咎(とが)められた】
さて今日読んでもらった物語は、安息日にはどんな仕事もしてはならないという律法規則に違反したという理由で、イエスの弟子たちを責める言葉がイエスに投げかけられた場面です。
弟子たちが直接に咎(とが)められたのではありません。弟子のような人々を連れて歩いていたイエスが責められたのです。ですから、イエスを貶(おとし)めることが目的であったことが判ります。
イエスに苦言したのはファリサイ派の人々です。ファリサイ派というのは、律法の規定を守って生活することに熱心な人たちです。その厳格に律法を護る姿勢は一般の民衆と一緒にされたくないということで、庶民と自分たちを分けて捉えていた分離派(ファリサイ派)だったのです。それほど熱心なユダヤ教徒にとってイエス一行の行為は目に余るものだったのです。
単に素行が悪いという程度の問題じゃありません。律法に違反しているということは、神への反逆者であるという理解がファリサイ派の人たちにあったのです。
先ほど説明しました律法の特性と照らし合わせれば、律法に従わないことは、ユダヤ教の教えに従わないことであり、民族の教えに従わないことであり、為政者に従わないことであると解釈されたのです。
弟子たちが歩きながら麦の穂を摘(つま)み食いしただけのことであるにもかかわらず、大事件として扱われたのです。
【イエスの反論】
この批判に対して、イエスは故事を持ち出して反論したように書かれています。すなわち「アビアタル(正しくはアヒメレク)が大祭司であった時、祭司だけが食べてよい供えのパンをダビデは食べ、共の者たちにも与えたことをご存知でしょう」とイエスは言ったのです。
「神に仕える仕事をしている祭司は、神に捧げたはずのパンを、腹を空かしたダビデとその共の者たちに食べさせたという事実をどう考えているのか」とファリサイ派の人たちに、イエスは問い返したのです。
神への捧げ物を管理するはずの祭司は、神へのお供えのパンを、神ではなくて空腹のダビデと共の者たちに食べさせたのです。
祭壇の上にお供えしたパンが無くなってはいなかったからです。お供えのパンを必要とする神などいないからです。
おいしく焼けたパンを持ってこいとか、特上カルビーや特上塩ホルモンを捧げよ、などと言う神はいません。上物を求めるのは政治や宗教の支配者層です。
供物を求める神などいないのです。
【安息日は人間関係の法律】
そもそも安息日に仕事をしてはならないという決め事は、神が人に求めた生活態度ではなくて、すなわち律法ではなくて、人の社会生活を円滑に進めるための決め事、つまり人間が決めた法律です。
一週間に一日は休日にするという安息日の決まりは、労使交渉の結果だと思います。権威付けしなければ護らない人がいたので、神の権威を背景に置くために律法にしたのでしょう。しかしそんなことをしたために、規定が一人歩きして人を縛る規定になってしまったのでしょう。
イエスはこのあたりの曖昧さをはっきりとさせます。「人を守るために安息日は定められているのであって、安息日を守るために人がいるのではない。安息日の主体は人(庶民・労働者)なのだ」とこの規定の根本理念を示したのです。
ファリサイ派がイエスの主張を認めて引き下がったとは思えません。けれども、ぼくたちにとっての考え方の基盤は明白になりました。
【ぼくたちは】
週に一度の安息日を必要とする神はいません。褒め言葉やお供えを必要とする神はいません。
供物を必要とする神などいないのですから、あなたに捧げ物を要求する神などいません。
神の要求に応えようと思わなくていいのです。神を恐れる必要など無いのです。あなたに供物を要求するのは、神ではなくて、神の名を利用している人間なのです。
取り置いてあった神へのお供えのパンをダビデに与えた祭司をイエスは高く評価しています。取り置いたパンは、神ではなくて、お腹を空かした人に与えるために用いられたのです。パンを食べない神への「お供えのパン」は必要ありません。神ではなくて、お腹を空かせている人たちに分けるために、備蓄という意味の「備えのパン」にこそ価値があるのです。