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「ルカには任せておけません」 20200119
「ルカにはまかせておけません」2020年1月19日
聖書 ルカ 十八章三十五節〜四十三節
木曜日の聖書楽講座の時間には、日曜日の説教原稿を黙読してもらってから、話し合います。前回は「何をしたいのか」という題の説教を題材にしました。マルコ福音書によれば、盲人バルティマイが、「見えるようになりたい」とイエスに願ったところ、イエスは「行きなさい。君の信仰が君を救った」と答えた場面です。問いと答えが一致していないようです。あなたも、そう感じたことでしょう。
問いに、正面から答えていないように思えます。「まるで、国会での、野党の質問と首相の答弁のようだね」と誰かがうまい比喩を言いました。とにかく、なぜ、イエスはこんな言葉を発したのか、ということを、先週は一所懸命に考えて、答えを出したつもりです。しかし、聖書楽講座の席で、この場面を、他の福音書は、どのように描いているんだろうか、という質問が出ました。そこで、マタイとルカ、両福音書の並行箇所を読み比べました。
キリスト教神学では、この三つの福音書を、共観福音書と呼びますけれども、何度も言っておりますように、ぜんぜん異なった観点で書かれているので、共観どころか、異なる観点で書かれた異観福音書です。今日は時間の関係上、ルカ福音書とマルコ福音書の関係を中心に取り上げます。
【ルカの名も無き物語】
ルカは盲人の名前を書かずに「ある盲人」とだけ紹介しています。群衆が移動して来るのに違和感を覚えた盲人は、「何事ですか」と問いかけたところ、「ナザレのイエスのお通りだ」と知らされます。ナザレのイエスの噂を聞いていたんでしょう。「ダビデの子イエスよ、私に憐れみを」と彼は叫びました。
先頭を行く者たちが彼を黙らせようとして叱ると、なおいっそう叫び出した。そこで、イエスが、彼を連れてくるように言いました。「何をしてほしいのか」と、イエスが問いかけると、盲人は「見えるようにしてください」と願いを告げました。この辺りはマルコとさほど違いません。大きく異なっているのは続くイエスの言葉です。ルカのイエスは「見えるようになれ。君の信仰が君を救った」と言います。するとたちどころに見えるようになり、神を賛美しながらイエスに従った。すべての民はこれを見て、神をほめたたえた、ということになっております。
【ルカの言葉は納得しやすい】
マルコ福音書を読んでいて、判りづらいと思っていたことが、ルカでは、いとも簡単に、理解できるよう、素直な文章で綴られているじゃありませんか。マルコを読んだ時に、なぜイエスがこんな言葉を発したのかと悩んだことが嘘のようです。
「何をして欲しいのか」「見えるようになりたいです」「見えるようになりなさい」と、受け答えがバッチリ噛み合っています。ルカは、イエスの偉大さを軽妙に表現しております。ルカ福音書を好きな読者が多いことも頷けます。
とは言いましても、ルカの表現を、そのまま採用すると、ぼくが先週した説教が無駄になってしまいます。ですから、そう簡単には引き下がれません。あなたにも、ぼくのこだわりを理解していただけると、嬉しいので、何とか努力してみます。と言うのも、この違いが判っていただけると、イエスの福音に、より近づくことができると思うからです。とにかく、何とかやってみましょう。
【背景の教会が違う】
「人の子イエス」を強調して福音書を書いたマルコに対立して、イエスが「神の子」であった、と証明するために、ルカは、自ら、力を込めて福音書を書いたんだと思います。ルカは、マルコ福音書を意識しており、マルコの説を撃ち壊すという、明確な意図をもって福音書を書いた、と考えております。
ですから、マルコが描いたイエス像と、ルカが描いたイエス像が、驚くほど異なっているのは当然のことです。そして、マルコとルカがこれほど対立する背景には、彼らの背後にある教会が異なっていたからだと、ぼくは考えております。
聖書楽講座での質問の中に、この盲人を、ティマイの息子のバルティマイだった、と紹介しているのが、なぜマルコだけなのか、というのがあったので考えてみました。
ルカは、名前を告げておりません。ちなみに、マタイは二人の盲人ということになっております。このように、記述が異なっているのも、背景にある教会が違うからだ、と考えられます。それぞれの背景にある教会は、場所も時間も違うところにあったことを意識しておくことが重要です。
マルコの教会で、盲人はティマイの子のことだと言った時には意味があったはずです。そのように紹介しますと、マルコの教会の人々は、ああそうか、あのティマイの子の話かと思えたんでしょう。一方、ルカの教会が、ティマイという人を全く知らなかったならば「ティマイの息子バルティマイ」という言葉は意味をなさないわけです。背景にある教会がそのように、状況も異なっていた、ということです。
「昔々、ある所に、おじいさんとおばあさんが住んでおりました」という言葉で始まる昔話と同じです。「ある盲人」という言葉を使うことによって、物語は、抽象化、普遍化、一般化されています。イエスとバルティマイの間に起こった事件から、物語が遠のいているように感じます。
イエスは、「ある盲人」の目を見えるようにしておやりになった。それほど素晴らしい神の子だった、ということだけが強調されてしまいますと、神を賛美する社会が、障害のある人を差別する社会であったことや、盲人バルティマイがそんな社会によって差別されていたという事実も、吹き散らされて見えなくなってしまいます。
【「ナザレのイエス」の捉え方の違い】
マルコが「ナザレのイエス」という言葉を使ったのも、イエスがナザレ村出身だと言うことによって人間イエスを強調するためだと思います。しかし、ルカはあのナザレのイエスこそダビデの子孫であり、神の子として、奇跡をなさったんだ、ということで神へのつながりを強調しているように思います。
【最も異なるところ】
そして、何よりも大きな違いは、マルコが伝えた「行け。君の信仰が君を救った」という言葉と、ルカが伝えた「見えるようになれ。君の信仰が君を救った」という言葉の違いです。
ルカによれば、「彼はたちまち見えるようになり、神を賛美しながらイエスに従った。すべての民はこれを見て、神の栄光をたたえた」ということになっております。たちまち見えるようになった盲人は、突然に神を賛美し、その言葉に導かれて、民も神の栄光を讃えるようになった、と言います。こうなると、イエスとバルティマイの具体的な話は、舞台の後ろに引いて行かれ、盲人を見えるようにしてくださる神の子の偉大さと神に栄光を帰する民衆の姿が前面にせり出してくることが判ります。神の子が奇跡を起こし、皆が神を讃える物語へと、見事に昇華させられていく手際には驚かされるばかりです。
【君の信仰が君を救った】
さらに、「君の信仰が君を救った」という、イエスに特徴的な言葉も、ルカでは、イエスなら盲人の目を癒すことができる。盲人には深い信仰(信頼)があったから、救われたんだよ、というような意味にされているのだと思います。
ルカが書く文章には、人が救われるためには、深い信仰や熱心な祈りのような人間の努力が必要なのだ、という思考パターンが認められます。
このような考えかたの方が、文章としてもつながりがよく、多くの人が受け入れやすい論理なんです。ですから、今日の物語でも、「見えるようになりたい」という要求に対して、「見えるようになれ」という言葉のつながりはわかりやすいんです。マルコのように、「行きなさい」というのでは、頼りないですし、スッキリしない、と誰もが感じます。
【マルコはわざとイエスの言葉を残した】
しかし、いくら下手で洗練されていない文章を書くマルコでさえも、そんなことぐらい、しっかりわかっていたはずです。理解されないかもしれない、という危険を承知の上で、マルコは「行け。君の信仰が君を救った」という言葉をわざわざ残したんでしょう。簡単に筋の通る言葉にしなかったということは、大変な葛藤をともなう作業だったはずです。
マルコが、「行きなさい」という言葉を残した、第一の理由は、これが、イエスご自身がおっしゃった言葉だ、とマルコは伝え聞いていたからでしょう。
この物語をマタイもルカも取り込んでいるということは、この物語をはじめに書いたのがマルコであることの証拠です。マタイもルカも、マルコ福音書に触発されて、それぞれ独自の資料と、マルコが知らない共通の資料を揃えた上で、マルコ福音書を参照しながら、福音書を書いたことは明らかです。
マルコが七十年代に福音書を書いたとすればイエスの事件から四十年程度後なんですが、マタイやルカの福音書は、それよりも更に二十年以上も後の著作です。地域も違います。それぞれの背景にあった教会はまったく違うということです。
この物語を、聞き取って、最初に文章にしたマルコが、「行きなさい」という、つながりの悪い言葉を書き残したのは、マルコが知り得たイエスの言葉が、「行きなさい」であったからに違いありません。
「君の信仰が君を救った」というのも、他の誰かの力によってではなくて、信心の強さなどでもなくて、イエスの力によってでもなくて、まさに「君自身の信仰」が「君自信を救った」と言い切ったんです。ここにこそイエスの福音の真髄があります。自分の思いで、自分が救われていくんだ、と堂々と言い切ったのが、マルコの伝えたイエスです。
【マルコの言葉は今も実現可能である】
ルカの話では、突然神様が出て来て、全てを成し遂げてくださったことになります。けれども、それは、昔々、ある盲人に、こんなことが起こりました、というおとぎ話と同じように、今のぼくにもあなたにも関係ない話です。マルコはそれが嫌だったんです。だから、人は自分の信仰で自分を救うことができる、と言い切ったイエスをマルコは伝えたんです。イエスの出来事は、神様を登場させなくても、いやいや、神様なんか登場しない今も起こり得るんです。
【ぼくたちは】
「君は門の外の道端に座って物乞いしていればいいんだ」と社会から押し付けられたとしても、「君はそこにいなくてもいいから、どこにでも行け。君の信じることが、今置かれている場所から君を救いだすんだから」、とイエスの言葉はそんな意味だとぼくには聞こえます。
これほど力強い言葉を、「見えるようになれ」という言葉に矮小化(わいしょうか)したルカにイエスの福音を任せてはおけません。
判りにくくても、マルコが伝えた「行け、君の信仰が君を救った」というイエスの言葉に背中を押されて、自分の行きたい道に、あなたも、一歩前進しましょう。
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