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「性被害者を護った男」20231217
「性被害者を護った男」20231217
聖書 マタイ一章十八節~二十五節
先週は、マリアが処女のままで妊娠するというお告げを天使から授かったという神話を現実的に言えば、誰かがマリアを襲って性的暴行を加えた事件の結果、マリアは望まぬ妊娠をさせられた、ということだと言いました。マリアが婚約者ヨセフに相談することもできなかったのは、恥ずかしめを受けたからに他なりません。マリアは、一人で、苦痛に押しつぶされながら、何ヶ月も過ごしたはずです。
レイプの結果生まれたイエスを神の子と信じることができるのか、という意見もありましたけれど、穢(けが)れなき環境で生まれたイエスでなきゃ神の子として受け入れられないというのであれば、それは差別です。
【ヨセフの苦悩の始まり】
婚約者ヨセフは事件の数ヶ月後にマリアが妊娠していることに気づいたでしょう。自分の子でないことは確かだったので、何が起きているのか理解できないまま、ヨセフの苦悩が始まりました。
いくら優しい人でも、心を乱したはずです。怒りにまかせて、マリアの責任を追求することもできたのですが、苦悩の末にヨセフは、内密にマリアとの縁談を破棄しようと考えたのだそうです。「正しい人であったので・・・」と説明されていますけれども、そんな簡単な言葉で表せるはずありません。
みんなの知らない所で何があったにせよ、社会はこんな状況を背負っているマリアを赦しません。事件が公になれば、性被害者マリアは石打ちにされるでしょう。マリアをそんな目に遭わせたくなかったヨセフは、マリアを糾弾せずに、密かに離縁しようとしたのでしょう。
【ヨセフに起きた変化】
しかし、ヨセフがそう決めた矢先に、天使が夢に現れて「妊娠しているマリアを妻にしなさい」とヨセフに告げたことになっています。「夢で」ということは、証拠はない、ヨセフにも真相は判らないという意味です。自分の知らない間に妊娠していた婚約者を、そのまま妻にせよ、とは異様な要求です。ところが、ヨセフは突然、自分の決断を変えて、マリアとの婚約状態を続けたのです。
離縁さえすれば、マリアのゴタゴタから逃れられるにもかかわらず、ヨセフはマリアを離しませんでした。マリアを突き放したらマリアの行き場がないことが判ったからでしょう。
マリアができることは、一人でどこかに逃げることぐらいです。しかし故郷から遠く離れた地にいったとしても、一人で子を産めません。
どうしようもないマリアを一人にしておくことはできないと悟ったヨセフは、何事もなかったかのように婚約者という立場を変えませんでした。それでもマリアが妊娠していることは、周りに判ります。その場合は、ヨセフが責任を取る事にしたのでしょう。ヨセフは、真相を問い詰めもせず、マリアの苦痛をまるで自分の責任であるかのように引き受けたのです。逃げ場のないマリアを窮地から救うことができるのは婚約者ヨセフだけだったからです。
誰の子を宿しているのか判らないままで、ヨセフがマリアを受け止めたのは、マリアを護り抜く方法はそれしかないことをヨセフが悟ったからだとしか思えません。ヨセフは、マリアを護るために、自分が責められる立場に置かれても何も喋らないことにしたのでしょう。
【マタイは現実を説明しなかっただけ】
マタイ福音書は、こんな苦悩の現実をクドクド説明せずに「マリアは聖霊によって妊娠した」という一言で済ませています。しかしこの神話には、ヨセフの葛藤が背景にあることを読者は思い浮かべるべきです。そのような読み方ができれば、自分が葛藤した時の支えにもなるはずです。
親が誰であるにせよ、イエスは男と女の関係によって生まれた人間です。ぼくらと同じ人間だから、ぼくらの苦しみが判るのです。神話の言葉通り聖霊によって生まれたんじゃ、ぼくらと関係ありません。マタイが「聖霊によって」と表現したのは、細かな説明は省くよ、という程度の意味です。
このようなことから判るのは、救いは天から降って来たんじゃなくて、ドロドロの人間関係の中で産まれたということです。ですから、ドロドロの中で産まれた赤ちゃんこそ救い主(メシア)である、とぼくらは公言すべきなのです。
ぼくらの生活もドロドロですけれども、そのような状態であるからこそ、ドロドロの関係を背負って産まれたメシアに気付く事ができるのです。
イエスがぼくらとまったく同じ人間であるからぼくたちと関係があるのです。もしも、特別な神の子だったなら、ぼくらと何の関わりもありません。
ヨセフやマリアのように、ドロドロした苦悩を引き受けた人間が、人間イエスの誕生を支えたんです。これがイエス誕生物語の意味です。
【なぜ引き受けたのか】
ヨセフがこんなばかげた役を引き受けてしまったのは、誰かの子を宿しているマリアを助けることができるのはヨセフしかいなかったからです。
苦悩を背負ったマリアとその苦悩を丸ごと引き受けたヨセフは、マリアと一緒に苦労する覚悟を決めたのです。人口調査があったということですから、戸籍みたいなものもあったんでしょう。ヨセフはイエスを自分の息子だと認知したのです。
美しい御伽話が奇跡なのではなくて、マリアとヨセフの事実が奇跡なのです。
イエスが、レイプ事件の結果生まれた人でも、自分の救い主と認めることができますか。あるいは、乙女が聖霊によって妊娠させられて生まれた子でなければ神の子と認めないのでしょうか。
あり得ないことを信じ込むことが「信仰」じゃありません。「信仰」とは、「そのままで受け入れ、そのままで受け入れられること」で「愛」と同じです。
【ぼくたちは】
理解できないまま進んでいく受け入れ難い現実から逃げずに、二人が正面から向き合ったことが奇跡を産んだんです。これによって、「誰が親なのか判らない子を妊娠させられた」というマリアの事件が「ぼくらに救い主が誕生」したという救いの事件に変わったのです。
綺麗な出来事しか受け入れないというのでは誰も救われません。現実をそのまま受け止めることが人を救います。それがイエスが伝えた福音、善い知らせです。
民衆に取り囲まれて、不義の女だと責められていた女をイエスが一人で護り抜いた出来事が、ヨハネ福音書の八章に書かれています。イエスがこんな危険な立場に耐えて一人で女を護ったのも、マリアを護り抜いたヨセフに育てられたからだと思います。
救いの出来事は、このようにして人から人へと受け継がれていくのだと思います。