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「イエスの断言こそ真実です」20190908

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「イエスの断言こそ真実です」2019年9月8日

聖書 マタイ 十一二十節~

 

 先週は、ユダヤ教の指導者たちとイエスが、権威について対論した物語を、話しました。今日読んでいただいた箇所は、先週の事件の続きに置かれている譬え話です。ただし、マタイ福音書だけ掲載されています。マタイ独自の資料です。

 この記事のイエスが語った一つの表現に、ぼくは注目しています。ここには、自分の福音を非常に過激な言葉で表現イエスが描き出されています。もちろん、イエスが自分の福音を過激に表現しているのはここだけじゃありませんしかし、今日の言葉は、特に大切だと思います。

 キリスト教という宗教組織が伝えている教義ひとつとしての福音じゃなくて、ここにはイエスご自身が伝え福音があります。ぼくはそれをしっかり受け止めたいっています。何故ならば、イエスご自身が伝た福音によってこそ、ぼくたちは救われ得る考えているからです。

 しかし、今日は、そこに行く前に、聖書を読む者として、聖書の翻訳について、興味深い話題をひとつ紹介させていただきます。

 

【聖書異なる翻訳がある

 昔から口語訳聖書(新約1954年改訳、旧約1955年改訳)に親しんでこられた方には、今日の箇所は違和感があったと思います。と言いますのも、いま司会者に読んでいただいた新共同訳聖書と、いわゆる口語訳聖書では、兄と弟の態度が入れ替わっているからです。

 口語訳聖書では、兄は「はい」と応えておきながら実行しなかった。弟は「いやです」と応えたが実行した、とされています。物語の中の兄と弟の役割が、まったく逆になっているんです。なぜこういう違いが生まれたのかを、簡単に説明しておきましょう。

 前提として、押さえておいていただきたいことは、ぼくたちがいま手にしている聖書は、日本語に翻訳された聖書である、という当たり前のことです。

 聖書を翻訳する時にはまず、本文を決定しなければなりません。そこで定本使われています。定本というのは、専門家たちが、昔の写本の断片などを調べて、元の文章はこうだったんだろう、という研鑽の結果を纏めた本です。年数が経ちますと、新しい写本の発見や分析研究が異なってくることもありますから、それらを踏まえて、新しい版が出版されまつまり今日の物語で、兄と弟の役割が反転している理由を一言で言えば、異なる定本が使われたからです。

 新約聖書のギリシャ語版にも色々ありますけれども。いわゆるネストレ版と言われるものに定評があります。そして、その二十五版を口語訳聖書は使っており、新共同訳聖書は、二十七版を採用しているので、このような違いが生まれました。

 ちなみに、岩波書店の新約聖書ぼくの恩師である青野太潮先生は、この新約聖書翻訳委員会に名を連ねておられますし、真正パウロの手紙七つの翻訳を担われました)、新共同訳聖書と同じように二十七版を採用しているので、父の命令に「いやです」と応えたけれども、後に気を変えて父の希望通りに実行したのは兄になっております。

 一方いい返事をしたけれども、実行しなかった。もう一方はいい返事をしなかったけれども実行した、ということだけですから、父の思いを成し遂げたのが兄であっても弟であっても、いいと思うんですけれども、今日の後半部分との関係を踏まえて考えと、微妙です。

 

聖書に違いがあっていいのか

 ネストレのギリシャ語定本を見れば、聖書の本文が、とても緻密な作業の末に決定されていることが判ります。本文を決定した理由を読み解くことができるように、脚注がびっちり埋められているんです。何世紀の、どの系統の写本に、この言葉が使われているとか、別の読み方、すなわち異読にはこんなものもあるとか、どちら決めがたいけれども、自分たちはこちらをとりましたというようなことが判るように書れています。ということは、最後は自分の責任で決定していいですよということですから、本当に謙虚な姿勢で定本が作られていること判ります

 そんなに丁寧な日本語聖書はありません。ただし、岩波の聖書は、それまでの日本語訳聖書よりも、誠実であろうと努力されてるように感じます。凡例(はんれい・書物のはじめに使い方などを纏めたもの)の中に「翻訳のギリシャ語定本は、ネストレ アーラント校訂(こうてい)本二七版(一九九三年)である」と明記していますし、その他の留意点が書かれております。また新約聖書に収められている二十七文書のまとめ方や順番が異なっていることも、強い主張があります。

 さらに、特筆に値するのは、本文ページに傍注(ぼうちゅう・わきにつけた注意書き)があることです。読者に、いろいろ注意して読んで欲しい、という謙虚な姿勢があるということです。文語訳、口語訳、新共同訳に傍注ありません。

 今日の箇所の傍注には、兄と弟の順序について写本の勢力は伯仲(はくちゅう・優劣つけがたい)しているとか「行くと言って行かない兄の像にユダヤ人を、行かないと言いつつも改心して行く弟に異邦人を読み込む救済史的解釈の傾向が旧版には確認できるので、やはり二七版の方を採る」と理由説明されています。

 解釈し辛い方が、後の修正が加えられていない確率が高い、という本文批評(ほんもんひひょう)の常識から、二七版の立場を採用ことります。しかし、後半部分への繋がり考えると、二十五版を採用した方がいいようにぼくは思ます。何れにせよ、、どちらでもいいとぼくは思います

 ぼくは、それでいいんですけれども、聖書は誤りなき神の言葉であると信じておられる方は、どうお考えになっているんでしょうか。んなことでいいんでしょうか

 最初に書かれた原本は、しかったけれども、写本する段階で間違っただけだろう、という程度で済ませるつもりなのかもしれません。しかし神の言葉であると信じるならば写本する段階で間違えるなどもってのほかです。けれども事実、写本に違いがあります。兎にも角にも少なくとも、お手持ちの聖書誤りなき神の言葉である」と言えないことは確かです。このように、たくさんの問題を抱えた翻訳聖書を掲げて、聖書は誤りなき神の言葉である、などと言わない方がいいですよ、と余計な助言を残しておきます。

 

度胆を抜くイエスの言葉

 さてそれでは、後半部分に書かれている、とてもになる言葉を見て行くことにしましょう。

 「アーメン、ぼくは君たちに言う。徴税人と売春婦の方が君たちより先に神の国に入る。とイエスはおっしゃったことになっております。こんなことは他の誰もいません。ですから、本文批評的に分析しても、これはイエスの真正の言葉であると思います。ユダヤ教の教えに戦いを挑む、まことにセンセーショナル言葉です。

 罪人の代名詞のように語られる人々が救われて神の国に入ることができる、などと、ユダヤ教では絶対に教えません。にも関わらず、そういう人々こそ神の国に入る、とイエスは自分の福音をラディカル(過激)に表現しました。律法を厳守する生き方を誇っていた宗教指導者の生活の仕方なんか、まるで意に介さない主張をイエスは大胆に言い表したす。今日の記事の中で、イエス大胆に語った重要な言葉はこれだけだとぼくは思います。この言葉の理由づけが後に続いておりますけれども、内容がずれているように思いますので、後に付け加えられた言葉のように感じます

 バプテスト・ヨハネを受け入れなかったし、後日に思い返して信じることもしなかったからだ、と説明したとすれば、神の国に入れないのは、ヨハネを信じなかったからだということになってしまいますので、キリスト教の教義にも馴染まないと思いますしすっきりしません。

 とにかく、大切なことは、極端な言葉で表現し通り、イエスは徴税人や売春婦を差別していないという事実です。こイエスの福音の性質の一部を指し示している、という程度ことじゃなくて、これこそがイエスの福音だとぼくは思います。

 徴税人や売春婦や病人や障害者を罪人扱いしていた宗教指導者に対して、君たちが差別している人々こそ神の国に入ると言い放ったことが大切です。イエスには何の躊躇も遠慮もありません。誰でも遠慮すると思います。ここまできっぱりと言い切る人は現代にもおりません。

 

【ぼくたちは】

 そんなことはないだろう、とクリスチャンでも感じるほどのことを、イエスは、明確に言い切っています。人間は人間を差別する神を作りましたが、イエスは差別しませんでした。身分や状態の違いなど何も問題にしませんでした。偉い人たちに、遠慮や気兼ねしながら、差別ない福音を伝えることはできません。

 イエス以外に、このような福音の言葉を隠さずに言い放った人をぼくは知りません。そこまで徹底したイエスの生き様に、ぼくら動かされんです。イエスから受けた、そんな印象を大切にするだけでいいと思います。うまく言い表すことができませんが、イエスには真実を感じます。

 ぼくたちは、教え込まれた社会の秩序や論理に縛られています。だから、イエスの言葉を信じがたいことは理解できます。しかし、冷静に考えてください。この世のシステムでは、ぼくたちが救われなかったことは明白です。頑張れば組織の中で少しは上行けて、生活も楽になるかもしれません。しかし罪に対する神からの罰として災いを受けるかもしれないと思う人に、不安は尽きません頑張れば救われるという言葉に騙されてきました。頑張っても報われないことの方が多いです。刷り込まれた恐れから解放されることが救われて幸せになれることでですから、どういう状態であっても、そのままで認められている(愛されている)というイエス教えを信じる(受け入れる)だけでわれます。受け入れにくいでしょうけれど、イエスの言葉こそ真実です。イエスの言葉に賭けてみましょう。

 

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