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「悪友たち」20220123
「悪友たち」20220123
聖書 マルコ福音書 一章二十一節〜三十九節
木曜日の聖書楽講座(せいしょがくこうざ)では、週の初めの礼拝に使った説教原稿をそれぞれが黙読してから話し合うことをメインにしています。説教の中では、船や網や親も捨ててイエスに着いて行った漁師たちというのはろくな男たちではなかっただろうと話しました。しかしそれにしても、イエスから誘われた漁師たちが、あんなにも簡単にイエスに着いて行ったのは納得し難いという話題で話が弾みました。
伝統的な教会では、神の権威に嫌でも従ったモーセと同様に、神の子イエスの権威が偉大であったから漁師たちは従ったのだと説明しています。しかし、「両親を敬え」と十戒で命令しておきながら、神は親以上の存在だから、神の命令があれば親も捨てて従えというのはあまりにも横暴だと考えるぼくらは、その他の可能性を考えざるを得ませんでした。
そこで、イエスは着いていきたくなるような人だったのか、どんな人だったんだろう、という想像も膨らみました。かつて見た映画などにも影響されていますので、かっこいい人だったんじゃないかとか、いやいや見てくれはそれほど良くなかったんじゃないかとか、しかしぼくらでもカッコ悪い人には着いて行かないよとか、いろんな意見が出た後で、ぼくはいままで考えもしなかったことを思いつきました。それはですね・・・。
【イエスはどんな人だったか】
「おい、おまえとおまえ、ちょっとおれに着いて来いよ」と言われた漁師たちが、そよそよと着いて行ったほどに、イエスは立派な体格で、若親分のような強面(こわおもて)の人で、逆らえない雰囲気の人だったんじゃないか、と考えたんです。
まあそうなると、力で呼び寄せたことになるので、権力主義になってしまいますから、これも有りそうで無い話かもしれません。いずれにしても、イエスの言葉に即座に応じた漁師たちの心が弱かったことだけは確かなようです。
プロレスラーのような恐い人でなくても、気っ風(きっぷ・心意気)のいい兄(あに)さんから、「おまえらついて来いよ」「魚なんか捕っている場合やないでえ。人間を捕る猟師にしてやるぜ」と誘われた漁師たちは、おいそれと(すぐさま)イエスに着いて行った、ということなら有りそうです。そう思いませんか。
【漁師たちを連れて会堂に行った】
とにかくイエスは、そんな漁師たちと連れ立って、安息日にユダヤ教の会堂に入ったかと思うと、頼まれもしないのに教え出したというんですから、大胆なことをしたものです。
その場にいたはずのユダヤ教の教師たちを差し置いて教え始めたイエスは、すぐにとり抑えられなかったようです。そこから推測すると、やっぱりイエスは恐い雰囲気を持った人だったように思います。
集まっていた人々はイエスを抑えるどころか話の内容に感心したということですから、この場の雰囲気を想像すると笑っちゃいます。
ついに、会堂にいた中の一人が飛び出して来て、イエスを黙らせようとしたようですが、逆にイエスから悪霊憑(あくれいつき)のようにあしらわれ、「黙れ、この人から出ていけ」と叱りつけられて気を失ってしまったと言います。イエスはそれほど力強くて、権威を持っている者のようだった、という噂が流れたようですから、やはり強面だったんじゃないでしょうかね。
【シモンの家に行った】
会堂を出たイエスは、最初に声をかけたシモンとアンデレの家にヤコブとヨハネも連れて堂々と入っていったようです。物おじしないというか厚かましい感じで嫌ですね。
シモンは結婚して姑(しゅうとめ)の家に住んでいたようです。その姑が熱を出して寝ているとイエスは聞かされます。
仕事を途中でほったらかして、どこをほっつき歩いていたかわからない婿(むこ)さんが漁師たちを誑(たぶら)かした男を連れて、男五人が急に家に来たもんですからたまったもんじゃありません。どんなに元気な人でも急に具合悪くなります。
姑は「お世話なんか何もできませんからね。熱を出して寝ていますって伝えて、すぐに帰ってもらってよ」てなこと言ったんでしょう。
シモンがそのことをイエスに伝えると、「なになに、熱を出して寝ているってか」と、これを聞いたイエスは、逆にこれは良い情報を手に入れたとばかりに、つかつかっと姑の部屋に入って行って、姑の手を取って起こしたら、たちまち熱が去って、姑は元気にイエスをもてなしたんだそうです。
強面だっただけじゃなくて、イエスはシモンや漁師仲間とは違って、一目惚れするようないい男だったような気がいたします。
【有りそうなことをイエスにも当てはめる】
今までの一般的な教会で育てられた人が、ぼくの話を聞きますと、なんと罰当たりなことばかり言う牧師なんだろうか。牧師どころかクリスチャンの風上にも置けない、などとお思いになるでしょう。しかし、有り得ないほどの超特殊なことをイエスに当てはめて考えずに、ぼくらにもあたりまえに起こり得る出来事と考えて、イエスがなさった事を繋ぎ合わせれば、ぼくが今日お話ししたような、聞いていて笑顔が浮かぶような興味深い話になるはずです。
【イエスと漁師は師弟関係じゃない】
イエスは成人してから、伝統的な教えに忠実に生きようと決心し、出家して、荒れ野に住むヨハネの元に行って修行したけれども、どんなに修行したとしても人間は救われない、と悟ったから、街に舞い戻って、ユダヤ教の会堂に入って自分が経験した事や会得(えとく)した福音を語ったはずです。すなわち人は誰も神に対する罪人なんかじゃない、と教えたはずです。
修行を満願した修験者(しゅげんじゃ)でもないイエスが漁師を徴用して弟子にするなどということはあり得ません。会堂に入っていくための仲間を誘った程度でしょう。
荒れ野での修行をおさめたイエスが教師として弟子たちを教えた、という筋書きは後の教会が自分の権威を主張するために作ったものに違いありません。マルコ福音書のイエスの行状はそんなものではなくて、もっとぼくたちの生活に直結しているドラマチックで、興味を惹(ひ)かれるものです。イエスと漁師たちの事実関係は、師弟関係じゃありません。世間の常識から外れた仲間たちですから、いわば「悪友たち」のようなものだと考えたほうがふさわしいでしょう。
【ぼくたちは】
伝統的な教えに束縛されず、自分で理解したことをずけずけおっしゃったイエスにより、過去の束縛から解放された人々がイエスの福音を喜んだんです。この喜びをもっと多くの人々に伝えたい、とイエスは言っておられます。
イエスの解放の福音を知らされた者として、ぼくもこの喜びを伝えたい。イエスの弟子としてではなくて、イエスの悪友として、見えない束縛から解放された喜びを伝えたいと思います。