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「真実は再現できる」20240121

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「真実は再現できる」20240121

聖書 ルカ福音書 二十五節〜三十七

 

 今回は、クリスチャンなら耳にタコができるくらい聞かされているイエスの譬え、すなわち「善きサマリア人の譬え」を取り上げます。

 ぼくらが使っている聖書では「善きサマリア人」という小見出しがついていますが、「善き」というのは偏見というか贔屓(ひいき)でして、小見出しを付けた翻訳者たちの解釈が入り込んでいるということを何度も言ってまいりました。この話の主人公が「善か悪かなんて、判りませんし、関係ないんです。ですから、強(し)いて小見出しを付けるならあるサマリア人とすべきです。

 翻訳者が、聖書本文に無い小見出しを勝手に付けた際「善い・・・という評価をつけたために、自分に関係ないと感じた読者もいたように思います。しかし、イエスはこの物語で、善人か悪人かを問うていません。

 

【譬え(フィクション)の概要】

 この譬え話、つまりフィクション(創作物語)の内容は簡単ですから、ご存知でない方のために一応お伝えしておきましょう。

 強盗に襲われて身包み剥がされ、半殺しにされた人が道端に捨てられていたのですそこに通りがかったユダヤ教の式典を取り仕切っていた祭司レビ人も、この人に気づいたけれどもかかわらないようにして過ぎていった。ところが、旅をしていたサマリア人は、この人に応急手当てをして、宿屋まで連れて行ったというフィクションです。

 サマリア人というのは、民族と宗教の違いによって、ユダヤ人から差別されていたです。

 大怪我を負わされた人は多分ユダヤ人だったんでしょう。しかし、主人公のサマリア人は、民族や宗教の違いを超えて、怪我人を憐れんで、葡萄酒で傷を洗いオリーブ油塗って応急手当てをし、宿屋に連れていって介抱してやり、翌朝には宿の主人に相当の宿賃を残して面倒を見るように頼んでから自分の用事を済ませるために出かけていったのだそうです。しかも、費用が不足したら、帰りがけに私が支払うから、と言い残して行ったというフィクションです。

 このフィクションを語った後イエスは、この物語で追い剥ぎに遭った人の「隣人」になったのは誰かと律法の専門家に尋ねました。というのも、愛すべき隣人とは誰のことか、と律法学者がイエスに問いかけていたからです。イエスは、律法学者の問いに対して、言葉で隣人について説明しないで、譬え(フィクションという物語形式で答えたのです。

 イエスから物語を通して逆質問された律法学者は、「その人を助けた人です」と答えました。このを聞いたからにはそう答えるしかなかったのです。人種、民族、宗教、仕事の立場、そんなものに関係なく、人間として、怪我人を助けた人が、怪我人の「隣人」になったということです。

 怪我をしている人が隣人と呼べる同じ民族の出身者かどうか、ということではなくて、見る方向が逆で、怪我人が隣人だと思ったのは誰かと問いかけたことで、イエスは律法学者の問いの次元を全く変えてしまったのす。

 ぼくが困っていた時に、損を覚悟で助けてくれた人がいたとすれば、その人は「ぼくの隣人」です。そのような人間関係が大切だとイエスは言っておられるのです。

 

【同じようにしなさいと言われても】

 一連の物語の最後に、イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と律法学者におっしゃったと書かれています。こんな言葉を聞かされますと、読者の気持ちは、あるサマリア人の譬えというフィクションの内容に戻ってそんなこと要求されてもできないと感じます。

 だってそうでしょみんな自分の仕事で忙しいんだから、困っている人に気付いてもいちいち助けてなんかおれない、と思うはずです。

 応急手当てぐらいならできるかもしれないけれど宿屋に連れて行って、翌朝まで看病すことも良くなるまでの費用を出してやることできるわけがない、と考えるものです。

 

イエスは普通の人

 ここで、前回の説教を思い出してください。イエスは特別な人ではなくて、普通の人として、中風の男に「君の罪はゆるされる」とおっしゃっただけだとぼくは言いました。いやいや、イエスは神の子の権威を持ってこの男をお癒しになったのだという反論もありました。しかしそうだとすれば、イエスがなさった福音の伝達、つまり「君の罪はゆるされる」と伝えることはぼくらにできません。特別な存在だからできるのであれば、ぼくら庶民には関係ありません。イエスが僕らと同じ普通の人だったという共通のベースがなければぼくらと関係ありません。

 ぼくがとらえているイエスは人間です。イエスは人として生活し、人であったからこそ殺されもしたのです。イエスは自ら神の子であるとかキリストであるとか主張しなかったはずです。

 イエスをキリストにしたのイエスを神の子にしたの教会です。生前のイエス本人だけではなくて、周りのすべての人がイエスはただの人だと思っていました。ただの人だと思っていたから十字架に付けて殺したのです

 特別ではない普通の人が病人に「君の罪はゆるされる」と言ったから大問題にされたのです。この後、イエスが神の権威を示すために、病人を癒した書かれている部分は、後の教会の挿入すから、蛇足なのです。

 イエスの福音を伝える者は誰でも「君の罪はゆるされる」と言ってよい、とイエスはお示しになったのだと思います。ぼくらは、中風の男を歩けるようにはできません。しかし、ゆるしを宣言することならできるのですイエスの福音はこのように、再現性があるからぼくらにも意味があるのです。

 

【ぼくたちは】

 さてサマリア人の事件に戻りますと、サマリア人のようにすることは、奇跡を起こすことではないので、ぼくらにも可能です。金銭や時間的に余裕がある分は可能です。

 可能なことなのだから「あなたも同じようにしなさい」と言われていることが大切なのです。大震災の現場には、被災者の隣人になった人が多くいます。スーパーな人じゃなくても、自分にできることをして隣人になることが大切なのだとイエスは教えているはずだとぼくは思います。

 普通の人であったイエスがしたことだから再現できる。これが大切なのです。再現できない福音なんて存在意義がないと思います。

 何の権威もなくても「君の罪はゆるされる」と言えるし、困っている人を助けることができる。この事実が大切なのです。

 病を癒やせなくても、権威の後ろ盾がなくても、神への賛美を起こせなくても、罪に囚われている病人に、ただの人であるイエスが「君の罪は赦される」と宣言した。この衝撃的な言葉だけが大切なのです。そんなイエスは、あなたもサマリア人のように、困っている人の隣人になりなさいと言ったのですが、これはぼくらにもできることです。ぼくらにもできるという再現性があることが大切なのです。イエスの福音が再現性のあることであるからこそ、ぼくらも、イエスを真似ることができるのです。真実は再現できます。再現性がないに騙されないでください。

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