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「見切りをつけなさい」20221016
「見切りをつけなさい」20221016
聖書 マルコ福音書 一章一節〜十五節
二〇二二年二月二十四日にウクライナに住む人々の上に、突然にミサイルが降ってきました。そして、そんな危険を想像したこともなかった多くの人が突然に殺されたのです。このような暴挙は、ロシアのウラジミール・プーチン大統領ただ一人の意志で始められたのです。
どうして平気でそんなことができるのだろうと多くの人は思います。しかし、彼は、見ず知らずの他人が死ぬことを何とも思っていないのです。邪魔者は排除するという考え方なのでしょう。穀物や家畜は利用価値があるけれども、自分の思い通りにならない人間は利用価値がないどころか、彼の欲望や計画を邪魔するので、彼にとっては排除すべきものなのです。ただそれだけの理由で、殺される必要のない多くの人間がただ殺されたのです。彼にとって、他人の命は大切ではありません。隣国を侵略するために尖兵(せんぺい・先頭に立つ兵隊)にされた彼の国民も、訳が判らないまま戦場に送り出され、駒(こま)として使われたので、殺されたのです。
どの国の民も、このような殺され方をするのに意味などありません。狂気の独裁者にとって、自分の役に絶たない人は不要な邪魔者でしかないのです。気に入ったペットには優しくするのでしょうが、邪魔者は排除します。なぜなら、他人は思い通りに動かせないからです。
他人の心を動かすことができないのは、彼の能力がないからです。他人の心を動かすことができないから、権力と暴力で他人を動かそうとするのです。
人を人と思わないで、自分の気に入らない人をゴミのように扱う人が実在するのです。権威と権力を主張して殺戮(さつりく)を実行した後で理由付けするのはこのような人々の特徴です。
【神と暴君は同じイメージ】
考えてみてください。このような暴虐(ぼうぎゃく)者は、歴史的に教えられてきた絶対者なる神のイメージとそっくりだと思いませんか。聖書の多くの箇所に登場する神の性質と同じであることにぼくは驚きました。
現代のぼくたちも、ユダヤ教が教えたような神のイメージを多かれ少なかれ持たされています。そのような神が、プー大統領のように、自分の欲を満たすために、邪魔者を排除するのだとしたら、そして常にトップを恐れながら、生活しなければならないとすれば、民は誰も安心して生活できません。
時代劇で、お殿様が通る道では、進路を邪魔しないように、民は道端に退いて、体を小さくし、殿様の顔を見ないように土下座して顔を伏せなければなりません。殿様の邪魔にならないように、臣民は自分の存在を消さなくてはならないのです。そんな社会では誰も安心して生活できません。
宗教の神は、まるでそんな暴君と同じ存在なのです。気に入らない者には審判を下し、歯向かうものは決して赦さないと言うのです。民は存在しているだけで罪人だと言われ、命を捧げなければならないと言われるのです。救われたければ、代わりの命を差し出せという理解できない要求を突きつける自分勝手な神のイメージは暴君のイメージそのものです。
よくもまあこんなに恐ろしいイメージの神を作り上げたものです。こんな神を作ることができるのは、プーさんのように、他者を自分と同じ人間だと認識できない者に違いありません。
ソロモン王のように、トップに上り詰めた者が、自分の悪行に理由づけをし、人を掌握(しょうあく・意のままにあやつる)するために、勝手に作りだしたのが裁きの神であり、裁きの神に仕えるための作法として宗教と宗教儀式を作り出したにちがいありません。サイコパスのような者でなければ、絶対主権者の裁きの神を作り出すことはできません。まさかそんな人間がいるはずないと思うような人間が実在するのです。
人と人の深い関係の中で育てられたぼくらのような平凡な人間は、生殺与奪の絶対的な権威を持った神など作れませんし、そんな神にとことん従うこともできません。もちろん、自分の絶対性を主張する王様のような人にも従い続けるなんてことはできませんし、元来、絶対主権者などに従う必要もなければ、従わなければならない理由もないのです。
【イエスは愚直な人間でした】
イエスは、神に従わなければならないと教えられて育ったのでしょう。そしてあまりにも愚直(ぐちょく・生真面目)であったから、とことん従おうとしたのでしょう。その際に、偉そうな態度で街を歩き回る律法学者たちの元で学ぶだけでは生ぬるいと思ったのでしょう。
寝るための小屋も持たず、荒布さえ纏(まと)わず、ろくな飯も食わず、荒れ野で修行するヨハネの生き様に魅(み)せられたイエスは、ヨハネの下に行き、ヨハネからバプテスマ(洗礼)を授けてもらい、ヨハネの下で修行したのでしょう。ようするに修験者(しゅげんじゃ)のような生活をしたのだと思います。(しらんけど)
人間という生き物は何でもとことんやってみなけりゃ自覚できない存在です。だから思ったことを、グダグダ考え込まずに、とことんやってみればいいんです。そうすれば、プーちゃんやソロモンのような神の要求に従い続けることなどできないことが判ります。
【切りがないことに見切りをつける】
どこまでやっても「切りがない」修験者の生活にイエスは「見切りをつけて」街に舞い戻ったに違いありません。
何年も何度もぼくは同じことばかり言っておりますのは、ボケてきたからじゃありません。大切なことがなかなか伝わらないから何度も同じことを言うのです。イエスのように自分がいいと思ったことを嫌になるまでやってみればいいんです。そうすれば善いことも悪いことも限界が見えてきます。まるで主権者であるかのように大言壮語して、他人をゴミのように扱う人が多すぎます。騙されてみるのもいいでしょう。嘘や真実を見分けることができるようになりますから、やってみればいいんです。とことんやってみた結果、伝統的な宗教の教えや思い通りにできない人間をゴミ屑のように集めて燃やしてしまう神なんかいないとイエスは気がついたのです。嘘の情報を見分けることができるようになって、踊らされなくなったのです。このような状態にになることこそ悟りなのです。その悟りを周りに教えて、人が騙されないように教えた。社会常識という嘘に溺れている人を救い出した。だからこそイエスは救い主なのです。
【ぼくたちは】
主権者を自称する王や神に仕えることなどできません。また仕える必要もないのです。宗教の詐欺から救い出すために、イエスは本当の情報を伝えました。これがイエスの福音宣教(まことの情報伝達)です。
人間は神に赦しを請わなければならない存在ではありません。人間は神に対する罪を背負って生まれてきたという社会の常識(嘘の情報)をイエスは打ち破る生活をなさいました。それだけで殺されたのです。命の危険を承知の上でイエスはこのように生きたのです。イエスの生き様から学んで、イエスが伝えた情報を信じて、伝統的な嘘の教えに見切りをつければ、あなたも騙されない生活を送ることができるのです。