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「主人公は肩書きの無いイエス」20220710
「主人公は肩書きの無いイエス」20220710
聖書マルコ十五章四十七節〜十六章一節〜八節
【信条の中のキリスト】
第一コリント十五章一節〜五節には、まるで「履歴書」かと思えるほど短いキリスト教の信条が残されている、と先週の説教で言いました。
信条の主人公は「キリスト」です。イエスという名前さえ登場しません。隠されているというのは人聞きが悪いので、人間イエスの名を出さないようにしたんだろうと言っておきます。
教会ではキリストが中心に語られ続けています。この事実から、教会は教会教義(信条)を中心に教えてきたことが判ります。ほとんどのキリスト教会では、キリストという称号が教えられています。言い替えると、教会では、人間イエスが教えられていないということです。
もちろん、福音書を読んで、イエスがなさったことを説教しているという現実も確かにあります。ただし、その場合でも「イエス・キリスト」とか「キリスト・イエス」とか「神の子イエス」とか、「主イエス」とか「キリスト」と呼んでいる場合がほとんどです。ですから、人間イエスを取り上げているとは言えません。
ペトロが「あなた(イエス)こそキリスト(メシア)です」(マタイ十六章十六節)と告白したことを土台にして教会が設立されているのですから当然と言えば当然ですが、教会の説教に登場するキリスト・イエスが指しているのは、キリストです。人間イエスではありません
【称号と個人は違う】
キリスト(メシア、救い主)というのは「称号(しょうごう)」つまり「肩書き」です。
たとえば、牧師岩本義博と言う時の「牧師」の部分が「称号・肩書」きです。
岩本義博は神なんかいないと教えているんですよ、と言われれば、本当ですけれども、神なんていないと教えるのが牧師です、と説明されたら、多くの牧師たちが岩本と一緒にするな、と反発なさるでしょう。称号が示していることと、名前が示していることは、まったく別ものです。
【聖書の中の男女差別】
ぼくたちの教会では、木曜日の聖書楽講座の時間に、その週の初めの日曜礼拝説教を文書で読んでから話し合っています。先週は特別に結婚式の司式担当をしてから、ぼくだけ一時間ほど遅れて参加しました。ぼくが着くまでに、福音と呼ばれている言葉の中に男女差別がある、という話で盛り上がったのだそうです。
確かに「キリストはケファ(ペトロ)に現れ、ついで十二人に現れた。さらに五百人以上の弟子たちに一度に現れた。・・・・次いでヤコブ(主の弟ヤコブ)次いで全ての使徒たちに、そして最後に未熟児のごとき私(パウロ)にも現れた」(十五章五節〜八節)と書かれている中に女性は登場していません。教会の福音では、キリストは男たちだけに現れたことになっているのです。
この事実を見ただけで、何かが忘れられていることに気づくでしょう。そうです。もう一つの福音があるのです。すなわち、一世紀の後半に書かれたマルコ福音書には、重要な役割を担った女たちが、しかも、男たちを差し置いたような形で登場するのです。
キリスト教の信条を纏めたグループと、福音書を纏めたグループが、まったく異なるグループであったことは明らかです。
マルコは、イエスを中心に物語を書きました。話の中に、重要な役割を担った女たちが登場します。人間イエスは男ですが、周りに女たちがいます。当たり前の日常の光景なのです。
男だけの社会じゃなくて、女も男も登場する福音書の方が真実に近い物語だと判ります。しかも、女はただ登場するのではなくて、重要な役割を果たしているのです。
信条には、キリストが教会の重鎮になった弟子たちに現れたと書かれているのですが、福音書では、男の弟子たちは重要な役割を果たしていないのです。
【復活の証人】
イエスを主人公にして書かれたマルコ福音書によると、男の弟子たちは誰も復活させられたイエスを見ていないんです。イエスが復活したことに気がついたのは女たちだけだったとマルコは書いています。マルコの証言は、信条を土台に据えている教会の証言と全面的に対立しています。教会教義と福音書は決定的に異なっているのです。
男たちだけを強調する教会教義と女たちだけを強調する福音書があるのです。たぶんマルコはイエスの直弟子たちを嫌いだったのかもしれませんが、とにかく、イエスの復活に気がついて、イエスの復活を伝えることについて決定的に重要な役割を果たしたのは女たちだった、とマルコは言っているんです。
男尊女卑の社会にあって、女を中心に描くことは、権威をまったくおとしめることになったかもしれません。たとえそうなったとしても、マルコはこれを事実として伝えざるを得なかったのでしょう。事実を無視した教会教義(信条)を教えられても、そんなもので救われる人はいない、とマルコは判断していたのでしょう。
【女たちがいたから教会ができた】
十字架から取り下ろされたイエスの遺体が墓に納められるまで見届けたのは女たちだけでした。だから女たちは、日曜日の夜が明けるとすぐに遺体に塗るための香油をもって墓に行くことができたのです。女たちは墓まで行ったからイエスの復活に気付かされたんです。この女たちがいなければ、誰もイエスの復活に気がつかなかったかもしれません。
ところが、信条ではペトロが最初に復活したキリストに逢ったことになっています。肯定的な言い方をしても勘違い、悪く言えばごまかしです。キリストが死人の中から起こされて最初にペトロに現れた、というのは事実に反する綺麗事です。
一緒に生活したイエスは殺されたけれども、そんなことで私たちが築いた人間関係はなくならないとばかりに、イエスを墓まで追いかけていった女たちがいたからこそ、人間イエスが伝えた人間関係の福音は伝え続けられたのです。
差別され、人間扱いされていなかった男や女を無条件で受け入れたのは人間イエスで、キリストではありません。その福音を、受け継いだのは女たちであって男たちではないのです。
【ぼくたちは】
教会が伝えた短い福音の言葉(信条)にはイエスの生活の物語がないから、イエスの福音を感じることができません。教義が伝えるキリストという称号は僕たちを救いません。それを悟ったマルコは、イエスの生き様の全体が福音であることを、物語形式で書いた福音書で示しました。物語に出てくるナザレ出身のイエスが気づいた福音によってぼくらは救われるのです。
イエスの墓の前で「弟子たちに教えてやれ」と天使から言われた言葉を、女たちは恐ろしくて黙っていたのだそうです。もしも黙ったままだったなら、それで終わっていたでしょう。だから勇気を出して話したほうがいいのです。結局は誰かが話したと思いますが、自分の言葉としてはっきり言わなかったから、男たちに取られてしまったんでしょう。肩書き無しのイエスが説いた福音で救われるのですから、女もイエスの福音の生き様を堂々と語りましょう。