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「メシアは一人ではない」20220619
「メシアは一人ではない」20220619
聖書 マタイ 十六章十三節~二十節
先週は、イエスを死刑にする口実を作るために、ユダヤ教の大祭司が「お前はほむべき方(神)の子、メシアなのか」とイエスに問うた出来事を話しました。
大祭司が、「お前はメシアか」とイエスに言った言葉は、問いというよりも、「お前はメシアだと自称しているのか」と、イエスを馬鹿にした言葉です。大祭司の意図を知っていたにもかかわらず、イエスは「そうだ」と答えたのです。自分がメシアだなんて平気で言えるのはイエスだけですから一同はびっくりしたでしょう。しかし誰も真(ま)に受けていません。大祭司も真に受けていなかったにもかかわらず、言質(げんち)を取ったとばかりに、(神を)冒涜したイエスをどうするのかと、議場に問いかけたのです。大祭司の意図に逆らえる人などいなかったので、一同はイエスを処刑することに決議したのです。
とにかく、誰もイエスをメシア(キリスト)だと認めていなかったのは確かです。メシアだと思えば誰もイエスを死刑にしません。
メシア(キリスト)という言葉はキリスト教徒にとってイエスの称号(しょうごう・肩書き)のようなものですけれども、ユダヤ教徒にとってイエスはメシアではありません。すなわち、イエスがメシアであるということは自明(じめい・説明する必要もなくはっきりしたこと)ではないのです。
大祭司の問いに「そうだ」と答えたイエスが、自分はメシアだと初めから自覚しておられたのだと考えているのはキリスト教徒だけです。
キリスト教では、世の罪を取り除き、世の終末に現れる唯一の救い主がメシアなのですが、イエスは自分がそのようなメシアだと言っていない、とぼくは感じます。
イエスを、終末論的なメシアであると告白しているのは、イエスの死後に誕生したキリスト教会です。イエス自身はそんな意味で「自分はメシアである」と言っていないはずです。
【メシアにもいろいろある】
「イエスは神の子である」と信じ込んでいるクリスチャンは、イエスは初めから非の打ち所の無い人だと思っているでしょう。しかし欠点がまったく無い人などいません。イエスは全て善くて、ユダヤの指導者たちは全て悪いということではないのです。当時のイエスを見た人々は常識的な反応として誰もイエスを神の子メシアであると思えなかったのです。そうだとすれば、イエスはどういう意味で自分はメシアであると答えたのか考えてみる必要がありそうです。
イエスだけがメシアではなくて、他にもたくさんいたという証拠があります。
ダビデ王をはじめ、旧約聖書に多く登場する選ばれし者たち、すなわち、国民を危機的状態から救い出した者は、油注がれし者(メシア)だったのです。
国が危険な状態になった時に、たとえば攻めてくる隣国に対抗するためにユダヤの戦力をまとめて戦いに勝利したならば、その人はメシアになった訳です。また、国内でも権力者が暴挙(乱暴で無謀な振る舞い)で民衆を苦しめているような時に、民衆の代表として、権力者の理論を打ち負かして、国を安定させた人はメシアになったのです。あるいはまた宗教が曲がってきて民衆の生活を圧迫しているような時に、宗教の根源を問うて、民衆を解放した宗教改革者はメシアになったのです。
このように考えると、具体的な危機から民衆を救うために選ばれし者がメシア、キリスト、救い主だと解ります。しかもそれだけではなくて、異邦人の中にもメシアは居るのです。
【ペルシャ王キュロスもメシア】
バビロンに連れていかれていたユダヤ人たちが、後にバビロンに勝利したペルシャの王キュロスによって解放されたのですが、預言者イザヤはこのキュロス王を油注がれし者(イザヤ四十五章一節)と呼んでいます。
もう少し身近な例をあげれば、小さな宗教改革を目指したバプテストヨハネも、メシアと呼べるように思います。
ルカが「救い主を待ち望んでいた民衆は、もしかしたらこの人(ヨハネ)が救い主ではないかと思った」(ルカ三章十三節)という言葉を紹介しているように、当時の民衆も、自分達を具体的に救ってくれるメシアを待ち望んでいました。
イエスもヨハネの元で修行したように、ヨハネは、民衆に対してそれほどの影響力を持っていたから活動の早い段階でユダヤの王ヘロデによって粛清されたのでしょう。ヨハネの元にいたイエスは、ヨハネが捕らえられたのを機に、活動を始めました。ヨハネやイエスの具体的な活動はメシア活動だと考えられます。
活動を始めた頃のイエスは、一般人の目から見れば、訳のわからない若者です。
クリスチャンは、イエスを初めから完璧な人で欠点のない人だと考えていますが、そんなわけありません。それどころか、当時の有力者、有識者からは完全に馬鹿にされていたのです。「気が狂った」(マルコ三章二十一節)と思われていたという表現が現実を示しています。
【メシアは一人じゃない】
「お前は、ほむべき方の子メシアなのか」と大祭司から問われたイエスは「そうだ」と答えた。メシアという存在は世の中に一人だけではないと考えれば当たり前の解釈です。
イエスはメシア(キリスト)であるという自覚を持っていたのは確かであるとしても、自分一人がメシアであると考えていたのではない。この点は、イエスだけが宇宙で唯一のメシアであると主張している教会の教えとはぜんぜん違うのです。
【ぼくたちは】
苦難の民衆を救い出すために具体的に働いたイエスは確かにメシア(油注がれし者)です。だからイエスは「わたしはもちろんメシアである」と言い切ることができたのです。このイエスの態度こそがメシアの性質を表しています。
ペトロのメシア告白は教会が作ったメシア告白です。しかしイエスが大祭司に答えたメシア告白は教会の告白と同じではありません。
イエスが答えた「メシア」は助けを必要としている民衆を具体的に救うメシアですから、一人ではないのです。
キリスト教徒が信じている世界の終末に絶対的な権力をもって現れる「メシア」と、いえすが自称したメシアは同じではありません。
イエスには、恒久的な(永遠に変わらない)メシアになるつもりはなかったはずです。
「イエスこそメシアです」と告白するだけで救われて永遠のいのちを手に入れることができるなどという教えは教会だけの信条なのです。イエス一人が神の子メシアであるという告白はキリスト教会が作った告白です。実際のイエスは一人で全人類を救うメシアではなくて、メシアの中の一人という自覚があったと思います。そうだとすれば、どんな形であれ、事の大小にかかわらず、苦しんでいる人を現実に救うメシアに一人ひとりがなることをイエスは望んでいるはずです。それでいいのだとイエスは言ってくれるから続けていくことができると思います。誰もが小さな範囲でいいからメシアになることができれば、それが本当にイエスが望んでいることではないでしょうか。