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「初めに民の叫びがあった」20190721

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「初めに民の叫びがあった」2019年7月21日          

  聖書 出エジプト  一節~ 

 

 今日は第二十五回参議院議員通常選挙です。参議院に解散はないので、任期満了(年)による選挙です。ただし、参議院議員は年ごとに半数が入れ替わるよう憲法で定められていので、定数の半分をごとに選ぶことになっています。議員の定数二百四十八の内百人が比例代表選出議員、百四十八人が選挙区選出議員です。

 議員は国民の代表として国民を幸せに導く政治をするために尽力してほしいものです。選びたい人が出てこないのが一番大きい悩みどころです。

 民主主義に携(たずさわ)る議員にとって、最も重要な役割は、国民の声を聴くことです。

 君主においては、全国民が君主の声を聞かなきゃなりません。隣国では将軍様の声に耳を傾け、将軍様の意思を忖度(そんたく・気持ちをおしはかること)することが重要です。君主制と民主主義とは力の方向性(ベクトル)がまるで逆なんです。日本はもちろん民主主義国家ですから、君主の命令に従わないという理由で逮捕されることはありません。自分の言いたいことを言自由は保障されています。だから、日本はいい国だと言うことができます。国民の多くはそう思っているはずです。ですから、この国の民主主義を他の主義に代えようと思っている人は少ないでしょう

 ところが、宗教の話になると自体は一変しますバプテスト教会は会衆制ですから、教会の制度としては民主です。西野バプテスト教会でも六月に総会をして、一年間の事業と決算の報告をし、事業計画と予算を会員が承認決議しました。誰でも意見を言って、運営に反映することができます。法的にはぼくが代表役員ですけれども、代表の意図に反することを主張しても逮捕されたり追放されることはありません。極めて民主的な組織です。ヒエラルキーの組織が確立しているカトリック教会とは組織形態が違うということです。とは言いましても、カトリック教会でも、法皇を選挙で選びますから、組織全体が完全な君主制度じゃありません。組織運営というものは、複雑なものでして、一筋縄で出来ることじゃありません。

 このように、教会という組織は決して君主政治ではありません。しかし、カトリック(普遍的)教会にせよプロテスタント(カトリック教会に反抗する)教会にせよ、信条(中心的な信仰告白の表現)においては、君主制が唱えられています。

 神様は絶対だとか、神の思いを実現しなきゃならないと、神に従わなければならない、という主張当然のように唱えられております。こういう状態を、ぼくは異様に感じております。

 

神からの招集命令

 こういう姿勢が異様だということを示すために、今日は先週に続いて旧約聖書から出エジプト記三章一節〜十節を読んでいただきました。エジプトで奴隷にされていたイスラエル民族を率いて、エジプトから脱出させた指導者モーセが、そのような使命を神から与えられたという場面です。新共同訳聖書では「モーセの召命(しょうめい)」という小見出しが付けられておりますが、召命という言葉怖い内容あることをまず示しましょう

 八月終戦記念日に近づくと世間一般でも教会でも「戦争反対」という言葉を聞くようになります。「戦争反対」は当たり前で、普通の精神持ちならば、誰も戦争したいと思っていません。

 先の戦争で、父はソ連の捕虜になりシベリア送りになりましたし、伯父(おじ)は南方戦線で戦死しております。二人とも召集令状を受けて兵隊に駆り出されたんです。モーセが神から召命を受けた、ということは世界の君主である神から召集令状を受けた、という意味です。こんな言葉を信仰の世界では躊躇(ちゅうちょ)なく使っているんです。信仰のことになると、こんな言葉を使用することに疑問を感じないことが怖いんですなぜなら、神が絶対専制君主であるという思考の中で、疑うことなく使われているからです。

 神を君主として、神に聞き従う生き方を選んでいるからこそ、宗教者はこのような言葉を躊躇なく使うことができるだと思います。このような思考回路に陥(おちい)っているということを宗教者(信仰者)は自覚していません。

 「神様のために」と言ってテロ行為のために命を捧げる人と、召命という言葉を平気で使う人の思考パターンは同じであるとぼくには思えます。

 

【権力争い】

 今日の箇所で、モーセはイスラエル民族をエジプトの圧政から解放するという重大な任務を神から与えられた主張しています。

 モーセの要求をエジプトの王は当然拒みますけれども、エジプトの王など相手にならないほどの神からそのように命令されているのだ、とモーセは主張します。神と王権力争いの先兵になるように、神がモーセを召し出した、とうことです。

 このような話の展開を当然のように語る宗教指導者の言葉を、信仰者たちが疑問を持たずに聞いているんですから、信仰を持つということは怖いことだなあとぼくは感じています。

 

【疑問点】

 今日の物語を読んで、ぼくが問題に感じている点を具体的に話してみたいと思います。

 モーセはイスラエル民族でした。イスラエル民族に生まれた男を殺すように、というエジプト王の命令から逃された赤ん坊がエジプトの王女に拾われて育てられたという数奇な運命を辿ったことになっております。成人した頃に自分がイスラエル民族であることを知らされたモーセは、エジプト人がイスラエル人を打ちたたいている現場に遭遇したときに、見過ごすことができずに、エジプト人を殺してしまったんです。そのことがエジプト王にバレて、モーセはエジプトから遠く離れたミデアンの地に逃れて、四十年ほどの間に家庭も作り、平穏な生活をしていたようです。

 そしてある日、燃えているように見え柴(しば)が燃え尽きないことを不思議に思い、そこに近づいて行ったんです。そこで「モーセよ、モーセよ」と呼びかける神の声を聞いたことになっております。その声は「・・・イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを抑圧する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出せ。

 モーセが、イスラエル民族解放するようにとエジプトの王に要求したのは、神が、そうせよとモーセに命じたからだ、と言っているんです。

 エジプトの王は、神の要求を伝えたモーセに、そんな神をわたしは知らない、と答えます。当然です。エジプトにはエジプトの神があります。

 その後のやり取りの中で、多くの災害がエジプトを襲い、エジプトの王はしかたなくイスラエル民族を解放しなければならなくなります。見世物としては面白いかもしれませんが、とても残酷な話が続きます。

 

【出発点は叫ぶ声】

 モーセは、神の声を聞いて、神から召命を受けて、この使命のために立ち上がったんだ、と物語は教えます。神の言葉がモーセの原動力になっていたかのようにこの物語主張します。しかしこの説明には同意し兼ねます。神の言葉はモーセにしか聞こえておりません。神がおっしゃったからそうしなければならなかったんだ、という主張は、独善的なおしゃべり以外の何物でもありません。このような主張の根本には絶対的な専制君主として神がおられるんだから神の命令には絶対に従わなければならないのだという考え方があることは確かですこの物語が君主制を乗り越えられなかったのは、君主制しか知らなかった著者の限界なんでしょう。

 もしも、君主政治の圧政から奴隷状態の民を解放するのが別の君主であったならば、エジプトから解放された民は、解放してくださった君主(神)に新たに仕えることになるだけです。構造的には、エジプトにいた時と同じ形態の君主制という支配構造の下で民衆は生活しなければならないことになっちゃいます。

 この時代の著者が、このようにしか考えられなかったことは理解できますけれども、現代においても、神を絶対君主として表現する物語を、そのままの形で教え、絶対君主の神を讃美する宗教を、そのまま教えていていいとは思えません。そんなことができるのは、キリスト教という宗教も、君主制を採っているからだと思います。

 しかし、こような物語の中にも、事実が隠れているので、それを掘り起こしてみましょう。

 神は「エジプトで酷使されていたイスラエル人の叫ぶ声」をお聴きになったはっきり書かれています。神を登場させる神話でも、神が登場する前に、「まず初めに、奴隷状態であったイスラエル人の叫びがあった」という事実を知ることができます。つまり、出エジプト事件のきっかけは「民の叫び声」です。決して、神の言葉が先にあったんじゃありません。そしてこの点を理解することが、最も重要だと考えています。

 神の声がまずあったんじゃなくて、初めに民の叫び声あったんです。

 もしも、神の声が、民をエジプト王から解放したのだとすれば、君主が入れ替わっただけで、神という新たな君主を頂くことになります。民が君主制に取り込まれず、本当に解放されるのは、民の叫びが原動力となった時です。

 

【ぼくたちは】

 の叫びに、ようやく気づくような、いい加減な神様を登場させた話の展開は受け入れられません。イスラエル民族の叫びに、ようやく気づいたのはモーセ叫び声を聴いたモーセは動かざるを得なくなったんです。民の叫び声が人を動かしたんです。つまり、イスラエル民族を解放した原動力は民衆の叫び声です。民衆の叫び声で政治が変わっていくことが、民主主義の中で最も大切なんです。

 宗教から君主制を除くことができる可能性は低いですけれど、せめて、神の声に聞き従わなければならない、という呪縛(じゅばく)から自由になる努力ぐらいはしましょう。これが宗教がこれから取り組むべき課題に違いありません

 

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