説教の題名を押して下さい
「包まれていた安心を思い出せ」20200517
「包まれていた安心を思い出せ」20200517
聖書 ローマ人への手紙 五章八節
【かんたんな話】
ぼくがいつも伝えていることは簡単なことだと思っていたんです。しかし、なかなか通じないのは、わかりやすく話していなかったからだと判りました。
先週の木曜日のことですけれども、初めて教会の集会に出席なさったかたがおられました。そのかたのおかげで、ぼくは、とてもいい経験をすることができました。そのことをまず話しましょう。
木曜日にぼくたちは聖書楽講座(せいしょがくこうざ)というプログラムをしています。
集会の進め方は、その週の日曜日の説教原稿を、それぞれで黙読してもらってから、質問してもらったり意見交換するだけです。
先週は、みなさんが読んでいる様子を見ていたぼくは、ひとつのことを悟りました。それは、読みにくい文章だ、ということです。この手の文章としては、ぼくが書く文章は、判りやすいほうだと自負していたんですが、残念ながら、教会用語が多いことに気がつきました。
教会でしか通用しない用語は使っていないつもりでしたが、それでも、かなりこの手の本を読んだことのある人でなければ読みにくいものだとわかりました。だから、反省して、これからは、もっとわかりやすい表現にしよう、と思いました。
【伝えたいこと】
それでは、まず、ぼくが最も大切にしていることを、手短にお伝えしてみましょう。
先週の説教の題名と関係があるんですが、「あなたもぼくも包まれているんだよ」ということです。
キリスト教の中心は「愛」だと言う人がいますけれども、そもそも「愛」というのはわかりにくい言葉です。ぼくも長年わかりませんでした。
理解しにくい理由は、日本語では馴染みがなかった言葉だからだと思います。
それならば、日本人にわかりやすい別の言葉はないものか、といくつが試してみたんですが、なかなかいい言葉を思いつきませんでした。ところが、先週も言いましたように、いい言葉だと思うものに、出会いました。「包み込まれる」という表現です。
どんな状況を示しているのか、と言えば、ちょうど、赤ちゃんが、柔らかい布で包まれてお母さんに抱かれているようなイメージです。
【人生最初で最大の苦痛と幸せ】
赤ちゃんというのは、生まれた瞬間に、人生最大のピンチ(危機)を迎えたんだそうです。お母さんのお腹の中で何不自由なく、ボケーっと過ごしていた赤ちゃんは、まるっきりわからない世界に急に放り出されるわけですから、びっくりして、出したこともない大声を初めて出して泣くのも、無理ないですよね。この時に赤ちゃんが受けるショック(衝撃の不快感)は、人生初で最大のものだ、という話を聞いたことがあります。本当にそうだろう、とぼくも思います。
そんな赤ちゃんが、次に経験するのは、柔らかいおくるみに包んでもらって、抱かれることです。これまた、人生初のそして最大の安心感だと思います。これはもう、初めて経験する救い、と言ってもいいもんだと思います。
このように、包まれている状態が「愛」という言葉が表している状態だとぼくは考えております。
この時の赤ちゃんは、無力で、ただ世話のやけるだけの存在だというのが特徴です。そうであるにもかかわらず、そのままで包み込まれている状態であることが重要です。
このように、人生最大の試練を受けて混乱している時に、優しく包み込まれてホッとした体験を、人はいつも心の底で求めているのだと思います。そして、このように現在も包み込まれていることを知れば、それだけで、人は幸せになる、と思います。
【比べられる社会に自由を制限される】
しかし、成長して、一人歩きするようになると、体感的に包み込まれている状態から、どうしても離れてしまわざるを得ません。
さらに成長して、他人の存在が目につきだしますと、そこに、比べるという文化が入って来ます。そうして人間は、人間社会の複雑な関係に取り込まれていくわけです。
この社会では、比べること、比べられることは当たり前のことだと多くの人は考えています。しかし、それを常識だと教え込まれたから、多くの人がそう考えているだけです。比べるのは当然だ、いやむしろ、比べなきゃならない、というのは考え方の一つに過ぎません。
世の中で比べることができるものなど、何もない、とぼくは思っています。たとえば、ちょっと想像してみてください。
極端な言い方をすれば、工場生産された同じ形状の部品でも、みな同じじゃありません。長持ちするものもあれば、すぐに不具合になるものもあります。みな異なっているからです。「イヤイヤ、だからこそ比べて少しでも良いものを見つけ出さなきゃならないんだ」と言って、比べることを正当化する人もいるでしょう。ぼくが言いたいのは、そういう意味じゃなくて、皆同じじゃない、ということの例として出しただけです。
たとえば、人間はみんな異なっているものですから、人を比べることは簡単じゃありません。何しろ人は複雑ですからね。
つまらない質問ということで、よく紹介していることですけれども、「お父さんとお母さんとどちらが好きですか?」と、無神経なアナウンサーが幼稚園の子どもに質問したのを見たことがあります。お父さんとお母さんは全然違うものですから比べられないものです。比べられないし、比べちゃいけないものを、どうして比べさせようとするんでしょうか。子どもにそんな癖をつけるなよ、と腹立ちました。
男か女か、身長は、体重は、五体満足か、病気はないか、などと、生まれてすぐに、人間は比較対象になっています。一年生になったら、背が低い人は前、高い人は後ろです。教えられたことをどれくら理解しているか、比べられるでしょう。速く走れるかどうかも比べられます。比べた結果によって、評価に高低差が付けられ、人は分けられます。
同じ家の子でも、お姉ちゃんはよくできたのに、弟はあまりできない、などと比べられます。
ぼくは、平均してできない方に入れられていました。それがなんやねん、と思いますけれども、それを苦にする人もいます。
勉強や体育ができるとか出来ないとかで、評価され差別されることを、そのまま自分で認めてしまう人もおります。
なんとか評価を高くしてもらおうとして、学校だけでなく社会に出てからも、頑張る人が大勢おられます。がんばっただけの成果が出ればいいんですが、そうならない場合も多いんです。
無理しても報われなければ、落ち込んだり引き篭ったり、暴力や悪事に流れる場合もあります。
がんばった結果、社会的に成功したように見える人でも、昔認められていなかったという思いを引きずって、自分自身を認められないまま、苦しんでいる人がいかに多いことでしょう。
【どうであれ包み込まれることが大切】
しかし、先ほども言いましたように、どんな状態であれ、優しく包まれて、究極の欲求が満たされれば、人は幸せになって、活き活きと生きていけるようになる、とぼくは考えています。
ここでいう究極の欲求というのが「包み込まれるという状態」です。この欲求が満たされれば、どういう状況であれ、誰もが幸せを感じるに違いない、と思います。幸せを感じさえすれば、人間なんてものは、激励されなくても、自分でがんばって生きていくもんだ、とぼくは考えております。
一方、「包まれている」という安心感がなければ、他人から見てどんなに羨(うらや)ましい状況にいる人でも、幸せじゃないでしょう。どんなに励まされても喜べないだろう、とぼくは想像しています。
【包み込まれる初体験を思い起こす】
生まれ落とされた時の、最初で最大に居心地が悪かった時に、おくるみに包まれて抱き上げられた安心感を、もう一度得たくて、みんな、大きくなってからも、無理をしてでも、がんばるんだと思います。しかし、どんなにがんばってみても、そんなことで安心感を得ることはできません。
がんばったから認められているんだ、と思っている人は、がんばれなくなった時のことを考えただけで落ち込んでしまうでしょう。
ですから、大切なことは、何もできない時にただ包まれたという体験に思いを馳(は)せることです。ただ包まれたということは事実です。これに気づかせてもらうことが、誰にも必要なんです。
生まれながらにして罪人だと評価されて、自分でもそう思い込まされてきた障害者たち、病気になったがために罪人だと評価された人たち、生まれや職業の故に罪人だと評価されていた人たち、怠け者の罪人だと評価され、そう思い込まされてきた人たち、そんな人々に、条件を何も付けずに赦しや癒しや救いを宣言したイエスは、それらの人々を、そのままで包み込んだ人です。
パウロは、「わたしたちがまだ罪人であった時に、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことにより、わたしたちに対する自ら(神)の愛をお示しになった。」と書いています。愛されることに、頑張りや資格が関係無いことを示しているのです。
「罪人」と呼ばれてきた人々は、イエスの宣言を聴いて、生み落とされてすぐに包み込まれた最初の安心感を、思い出したんだと思います。人が求めているのは、そのままの自分が包み込まれることです。包んでくれるのがたとえ一人であったとしても、人はそれで十分に安心でき、幸せになれるのです。
【宗教が罪人を作り出した】
人を罪人に定めるような神がいるとは思えません。同時に、神の意思を知り得る宗教人など存在しないことも明白です。ですから、人を評価して、多くの人を罪人に仕立て上げたのは、神の名を騙(かた)った宗教(人が作った組織)です。
【ぼくたちは】
宗教というテリトリーの中では、人はみんな罪人だと教わります。しかし、宗教の枠から一歩出れば、人は愛されている存在なのです。
人はみんな異なった境遇を持っています。けれども、その全員が、包み込まれた人です。包まれた人だけしか生き残れないんですから。
だから、「包まれている」ことを忘れてはなりません。忘れていたなら、イエスの宣言を聴いて、包み込まれていることを再確認してください。「愛されている」という言葉を理解できなくても、何もできないままで包み込まれている事実を再確認して、あなたが安心してくださることを望みます。なぜなら、「包まれている」という安心が基礎にあれば、あなたは、自分の道を迷わずに進んでゆける、と思うからです。