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「サタンと呼ばれた男」20240303
「サタンと呼ばれた男」20240303
聖書 マルコ 八章二十七節〜三十三節
ユーチューブの視聴者のコメントを見ると、ぼくを、サタンとか偽教師と呼んでくださっている方がおられます。真剣に試聴してくださっていることが判りました。と言うのも、原理主義的あるいは福音派的なクリスチャンなら、そう思って当然だからです。そういう反応はたくさん来るだろうと思っていましたが、意外にも少ないので寂しく思っております。
批判的なコメントを下さる方のご意見を見て気になることは、聖書を無批判に信頼している信者が多いことです。もう一つ、著名人や学者や牧師の中にも、「イエス」と「キリスト」を混同している方が多いことです。ずっと言い続けていますように、聖書は人間が書いた書物の集合体ですし、イエスとキリストは明確に違います。イエスはこの世に生まれた人間です。これに対して、キリスト(メシア・救い主)は概念です。
イエスという名の人に、キリストという称号(しょうごう・肩書)を与えたのは、いわゆる後の教会と呼ばれた信者グループ(組織)です。肩書を求める人は多いですけれども、イエスは、キリストなどという肩書を求めませんでした。人を差別し罪人扱いする社会組織(宗教)から被差別者を守る活動をなさったのは人間イエスです。
【ペトロの告白をイエスは拒否した】
さて、「人々はぼくを何者だと言っているか」と、イエスが弟子たちに尋ねると、「人々は『バプテスト・ヨハネだ』『エリヤだ』『預言者のひとりだ』と言っています」(マルコ八章二十七節〜三十節)と弟子たちが応えました。
重ねてイエスは「君たちはぼくを何者だと言うか」と弟子たちに尋ねたところ、ペトロが「あなたはメシアです」(マルコ八章二十九節)と答えたのだそうです。するとイエスは、「誰にも言うなよ」と、弟子たちを戒めたことになっております。
「イエスはメシア(キリスト)である」と教えられ、そう思い込んできたクリスチャンにとって、イエスの反応は不可解です。マタイ福音書では同じ場面で、ペトロは誉められ、そのペトロの信仰告白の上に教会を建てるとイエスが言ったことになっているのです。多くのクリスチャンはマタイ福音書の記事に強く影響されていますから、マルコの記事を、イエスをメシアと告白するには時期が早すぎるから「まだ言うんじゃない」という程度の意味に解釈しているようです。しかし、そうではないでしょう。なぜなら、マルコのイエスは、ペトロを褒めないからです。「あなたはメシアです」というペトロの告白を喜んで受け入れるどころか、迷惑に感じて、拒んでさえいるようです。
続く言葉を見れば、その理由が判ります。
【人の子は受難する】
ペトロの告白を制止したイエスはすぐ続けて「人の子は殺される」と預言します。「人の子」という表現をいろいろと解釈する人がいますが、神がかりな「メシア」に対立して「人」を強調した表現です。「メシア」が戦いに勝利する指導者であるのに対して、「人の子」は官憲に捉えられ殺される運命にあるのだと弟子たちに伝えます。
【イエスはペトロをサタンと呼んだ】
「排斥されて殺される」などと、イエスが言ったもんですから、慌てたペトロがイエスを傍(わき)に引き寄せて、「そんなこと言うもんじゃありません」とイエスをいさめたようです。すると、イエスは、ペトロの手を振り払って、「サタンよ、引きさがれ」と叱かったのです。
マタイ福音書においては最大の賛辞を贈られたペトロを、マルコのイエスは「サタン」と読んだのです。ちなみに、サタンは「誘惑する者」のことです。
「人の子イエス」を、「メシア、神の子」にして、その告白を基にこの世に君臨するキリスト教会を作ろうとしていたペトロを、マルコ福音書の著者は徹底的に批判していると思います。
メシアであるという自覚もなく、メシアになるつもりもなかったイエスを「メシアであり神の子である」という存在に押し上げたペトロ(キリスト教会の代表)の告白を、拒否し、ペトロを「サタン」とイエスに呼ばせたのでしょう。
マルコ福音書に登場するイエスの弟子たちの役割はイエスからお叱りを受けることのようです。
イエスの直弟子たちは、偉い人たちだったと言いたい教会の気持ちは判りますけれども、事実はそうでなかったのでしょう。
【イエスはメシアではない】
イエス自身が、「メシア(キリスト)」と呼ばれることを拒否していたと伝えるマルコ福音書と、「教会(エクレシア)」は、ペトロの告白を基にイエスがお建てになったのだと伝えるマタイ福音書の立場は正面から対立しています。
もしも、イエスが「メシア」にされることを拒んでいたならば、ぼくたちも、イエスを「メシア(キリスト)」という称号で呼ぶべきではないでしょう。イエスとキリストは全く異なるものです。
イエスは権力や暴力に抗うことができず、殺されてしまいます。その程度の、「人(人の子)」です。イエスは神がかりなメシアではなくて、正真正銘の人だったのです。
そんなことを聞かされたら、ガッカリして希望を失くしてしまいますか。それは大きな勘違いです。イエスはまぎれもない人であったからこそ、ただの人であるぼくたちも関係を持てるのです。
イエスは「人の子」であったからこそ、自分の痛みを感じ、他人の痛みも感じ、抑圧される苦しみを知っていた。だからこそ、抑圧されている人を自由の身に開放する福音を、多くの人と共有しようと働くことができたんです。
【ぼくたちは】
人が救われるためには「イエスはメシア(キリスト)である」と告白しなければならないと教えられてきましたけれども、その告白はキリスト教会が求めているだけです。イエスはそんな告白を求めていません。
すべての人は、そのままで受け入れられているのだと知らせたのがイエスの福音です。「神がかりなメシア」なんかじゃなくて、イエスも、ぼくらと同じ弱さの中にある「人の子」であるからこそ、イエスの福音は真実なのです。
「弱さの中にある人の子イエスを、そのままで受け入れること」ができれば、「今の自分を、そのままで受け入れること」もできるでしょう。この二つは同じです。
メシア、悪霊の頭、サタン、どんな呼び方をするのも自由ですけれど、事実は人間「人の子」であるということです。この事実を認めるのが最も重要なのだと思います。