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「愛は対価を求めない」20190714
「愛は代価を求めない」2019年7月14日
聖書 創世記 四章 一節~十六節
先週のことです。ぼくの話は難しい、と言われました。優しく話しているつもりなのに、何が難しいのかと尋ねましたら、いろんな方面から説明するので返って難しく聞こえる、ということでした。納得してもらえるように、と思っていろんな証拠を提出しているんですが、それが返って難しくしている、と指摘されました。証明してほしいとは思っていない、ということでした。
自分の言いたいことを理解してもらうように話すということは、本当に難しいものだ、と改めて思いました。そういえば、子どもたちが小さかった頃にも、たくさん説明するから、話が長くて難しいと言われたことを思い出しました。
とは言え、説明なしで言いたいことを話すと三分かかりませんよ、と言いましたところ、まあ、その中間をとって、とにかく判りやすいように話した方がいいですよ、ということでしたので、簡素に話すよう努めますが、どうなりますやら。
【言いたいことを一言で言うと】
言いたいことを一言で言いますと、「皆さんは愛されているのですよ」ということだけです。「愛する」という言葉を難しく考える必要はございません。「大切にされているんですよ」という程度です。
誰にでも、何もできなかった赤ちゃんの時代があります。そんな時にこそ大切にされたから今も皆さんは生きておられるんです。自分の子をイジメる人も確かにおります。イジメを受けて、しかも他の誰からも保護されなかった子どもたちは死んでおります。そんな事件を聞くたびに、本当に悲しくなります。しかし、ここにおられる方全員は大切にされたんです。実の親でなくても、誰か大人が守ってくれたのは確かです。
何もお返しのできない子どもを育てることは、育てる側にとってはマイナスの多いことです。けれども、そんなことを十分承知の上で、子どもを育てる。これは、人間だけじゃなくて動物全体が持っている本能です。これがなければ、生物はとうに死に絶えています。だから、今生きている者たちは、大切に扱われた経験を十分に持っているはずです。全員が「大切にされてきた」言い換えれば「愛されてきた」ということです、この事実に立てば、どんなことにも立ち向かうほど強くなれるので、これを決して忘れてはなりません。
【愛されていたことを忘れさせる幻想】
しかし、人間は愛されてきた事実をいつの間にか忘れます。それどころか、「自分は愛されていない」という幻想が芽生(めば)えます。幻想は勝手に芽生えてくるもんじゃありません。幻想は心に植え付けらたんです。
人はいつしか、自分の価値を考えるようになります。人間に価値(valueヴァリュー)付けするなんてことはおかしいですけれども、そういうことが、巷(ちまた)に溢れております。
物の値打ちを決めるのも難しいことです。ましてや、人に値打ちなどつけられるはずありません。そうであるにも関わらず、ぼくらは、評価する社会に投げ込まれ、奴隷でもないのに、否応(いやおう)なく値踏み(ねぶみ・物の値段の見当をつけること)され、評価されてきました。そして仕組まれた罠に慣らされてしまいます。あなたはすでに評価の達人です。
ちなみに、「あなたの周りにいる人や知っている人に点数をつけてみてください」という課題をここで急に出したら、どうでしょう。皆さんはすぐに点数をつけ始めることができると思います。
自分の役に立つ人にはいい点数をつけるでしょう。お金を運んできてくれる人、気分を良くさせてくれる人、自分のためによく働いてくれる人にはいい点数をつけるでしょう。その逆の人には悪い点数をつけると思います。それが評価です。
それにしても人間を評価するなんてことは気が引けるんでしょう。学校などでは、いろんな基準を設計しています。学問を科目に分け、科目ごとにテストして、その結果を数字に表します。その数字で、人間を評価することが実際に広く行われています。そんなことで評価されることに、ぼくらは慣らされてしまっているんです。
学校の成績が良いので「出来る人」と言われても、他の場面になると「出来ない人」もたくさんいます。要するに、人を評価することなんかできません。
人を評価するのは難しい、と多くの人は言います。けれども、ぼくはもう一歩考え方を進めて、人間を評価することなどできないんだから、評価しちゃいけない、と言います。
【評価されることに慣らされてきた】
そこまで言われても、評価され続けてきた人は、評価され評価する、という罠(わな)に囚われたままで、ほとんど、逃げようともしません。
その証拠に、自分に点数をつけたら何点ぐらいになりますか、と問えば、基準はそれぞれ異なるので、他人の評価と異なっていることは当たり前なんですが、それでも、何なりと、点数をつけることができると思います。
自分は人間として百点だと思う人はいないでしょう。じゃあ九十点、八十点、七十点、六十、五十、四十、三十、二十、十、零点はどうでしょう。さすがに、自分に零点評価を下す人はいない、と思いますけれども、落第点を下す人は結構多いと思います。それほど、評価し評価されることが当たり前に感じるように慣らされていると思います。自己採点が低い人は、他人から受けた低い評価を受け入れてしまった結果、自己否定するようになったんでしょう。イジメられて、自殺する人には自己否定させられた人が多いと思います。
【評価から逃れよう】
しかし、評価なんてものは、設定条件が異なれば、変わります。他人の評価なんて全く当てになりません。だから受け入れちゃならないんです。
今生きている人は全員、何もできなくても、評価に関係なく「大切にされてきた」という事実があるじゃないですか。人は愛されているというのが事実です。学校や会社や家庭でうまくいかなくなって、他人から低い評価しか受けられなくなったとしても「あなたが愛されてきた」という事実は全く変わりません。
評価の世界では、評価が高くなり、値打ちが上がれば認めてあげる、と言いますが、それはギブアンドテイクですから、商売の論理です。
「愛」は商売の論理で説明できるもんじゃありません。ぼくが作った歌の題名のように「愛は代価を求めない」んです。特に自分を低く評価などするもんじゃありません。自分が神様でない限り、自分で自分を評価してはなりません。
人を評価できるのは神様だけだ、と思っている人が多いようですが、それは間違いです。「創造した人を評価する神」などいるはずないでしょう。
【評価するのは神話の神様だけ】
旧約聖書の最初に置かれてる創世記の最初の方に、兄弟殺しの事件記事が載っております。お兄さんのカインが弟アベルを石で殴り殺した事件です。現代の新聞に載っていそうな話です。
殺人の動機(どうき・直接の原因)は、弟に対する兄の嫉妬(しっと・愛情が他に向けられていることに対するにくしみ、やきもち)です。
聖書を読みます。「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」と書かれています。
確かに、弟アベルの捧げ物の方が優れていたような描き方がされていると感じます。神は優れた捧げ物を喜んでくださる、という考え方が著者にはあったんでしょう。
しかし、そもそも穀物と動物、という種類の異なった捧げ物を比べることなどできません。評価の設定に無理があることは誰にでもわかります。そうであるにも関わらず、特に「群れの中の肥えた初子の羊を捧げた」と書くことで、無理な比較を正当化しているように感じます。しかし、神は捧げ物によって人を評価なさる、という教えは、神話を作った著者の考えに過ぎません。穀物とラム肉なんて比較できません。好き嫌いの違いがある程度です。神は穀物よりもラム肉を好きだ、なんて、著者の勝手な思い込みです。そんなことで人間を評価する神がおられるなんていうのは、陳腐(ちんぷ・つまらないこと)な考え方です。
神はなぜアベルの捧げ物にだけ目を留めたのか、判らない、とおっしゃる方が多いです。けれどもこんなことに頭を悩ませる必要はありません。そもそも理由なんかありません。好き嫌いの程度の問題だと考えてください。捧げ物程度のことで、人を差別する神が居る、と思いますか。そんな神はいない、と判断できるでしょう。だからこの事件記事を読んで悩む必要はありません。これは神話です。「人を値踏(ねぶ)みして評価し、裁定を下すのが神だ」と教えているのは、神話の著者です。人を評価する神など実在しません。
人は皆、他者からの比較や評価に関係なく、愛されて生きているんです。だから、裁くべき人間を、全能の神が創造した、という神学は現実を無視しています。
比較や評価が、嫉妬(しっと)を生み、的外れ(罪)を生み、人を破滅に追い込みます。そうならないために、評価し評価される生活に別れを告げましょう。人は皆愛されて生きているということが事実なのですから。
【ぼくたちは】
イエスもパウロも、かつては神から評価されることを恐れていたようです。しかし、律法によって人間を評価する神などいないことに気づいて、評価の罠から抜け出しました。人間を評価して人を裁くような神を教える人は、神の名を使って、人の心を操(あやつ)ろうとしている人間です。
命あるものは全て愛されているという事実があるだけです。他人に評価される必要はありません。だから、これからは、自分を他人と比べない。評価されない。評価しない。覚悟を決めて一切の評価を捨てましょう。そうするだけで、必ず楽になり幸せに近づきます。