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「人が神」20230625

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「人が神」20230625

聖書 ルカ福音書 二十五節〜三十七

 

 大いなる自然でも仏でも神でも、呼び方はいろいろあるので、どれを使ってもいいのですけれども、畏怖の念を持つ存在を一番大切にすることが必要だと宗教者は教えます。すべてのものを超えてすべてを裁き、すべてを采配(さいはい・指図、指揮)する存在があることを、宗教は前提にしていす。このような存在を以後、便宜的にと言わせていただきます。

ところでぼくは、超越的な神があるという前提を認めていませんけれども、これでは話になりませんので、ぼくの立場をひとまず置いて、神がいるという前提に立っている宗教者の意見紹介してみま

 人間が幸せに暮らすためには、神を愛さなければならないと宗教者は言いますけれども、どのようにすればいいのか具体的には教えませんなぜなら神を知らないからです。

精神向上させることが神を愛することだと宗教指導者の多くは主張します。もちろん、イエスは精神変化させることによって神に近づけるなどと考えていませんでした。律法で最も大切な言葉は何かと問われたイエスが逆質問して、律法学者に言わせた言葉、すなわち「神である主を愛しなさい。同時に、隣人(他人)を自分自身のように愛しなさい」という律法の言葉の引用を、イエスはそのまま認めました。

 しかし、考えてみれば、判ったようで判らない言葉です。神を自分の主人として神に仕えようとすれば、自分や他人の意思に反するかもしれません。他人や神や自分という三者を同時に大切にすることなどできないと感じますから、この教えは矛盾に満ちているとえます

ややこしいので、律法の研究者も、この言葉を十分理解していなかったはずです。そんな律法学者を突き放すように、それは正しい答えだから「実行しなさい」とイエスはいました。

 律法学者は、自分も理解できていないことを質問すれば、イエスも困るだろうと考えたのでしょう。「隣人とは誰のことですか」といかけました。そこでイエスは譬え話をしたのです。譬え話ですから作り話(フクション)です。

 

神職たちの振る舞い

 ある旅人が強盗に遭って持ち物や衣服を盗られ、半殺しにされて道端に捨てられていたのです。最近は物騒になりましたから、今もありそうな話です。その頃はんな事件が頻繁にあったのでしょうか。

そこへ祭司やレビ人が通りかかります。祭司もレビ人も神殿で神に仕えるために選ばれた人です。神主(かんぬし)とその下で働く人ようなものだと考えてください。庶民のために働く立派な職に就いている人だと響きますけれども、彼らは、怪我人がいることに付いたにもかかわらず、近付くことを嫌って、わざわざ道の反対側通り過ぎて行ったのだそうです。

優しくない人たちだったという訳ではないでしょう。そんなことはこの譬え話から判断することはできません。ただし、彼らは人助けよりも自分の仕事を優先した可能性あります。商人や農民が通りがかったというのではなくて神殿で神に仕える祭司やレビ人だったからです。律法によって、彼らは穢(けが)れたものに触れてはならないことに定められていました。病人や死人に触ったならば、身を清めてからでなければ神職に就くことができなかったのです。

清めると言いましても、手を洗うという程度ではありません。数日間の清めの儀式というか作法があったのです。それを済ませなければ公務に復帰できなかった訳ですから、おいそれと怪我人に触れることできなかったので

 

【サマリア人の振る舞い】

 同じ設定場面にサマリア人が通りかかります。

 怪我人に気づいたサマリア人は憐れんで近寄り、応急手当てをして、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行介抱(かいほう・看護)までしてやったというのです。しかも、翌日には労働賃金の二日分ほどを宿屋の主人に手渡して、費用がこれ以上かかったら帰りがけに払うからと言い残して出かけた、という譬え話です。

あり得ないほど温かい話です。この譬え話を終えてからイエスは「強盗に襲われた人の隣人になったのは三人の内の誰か」と問うたのです。

答えははっきりしています。律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えました。「サマリア人です」と答えなかったのは、律法の専門家がサマリア人を軽蔑していたという背景が譬え話に盛り込まれているらでしょう。「サマリア人こそが隣人になった」なんて言いたくなかったに違いありません。律法学者のそんな心情を承知の上で、イエスは譬え話に、あえてサマリア人を登場させたに違いありません。

 

【隣人になる】

ユダヤの民の幸福のために神殿で働く祭司やレビ人が、職務を全うするために、傷ついている同国人を救うことを避けて通る姿、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリア人がたぶんユダヤ人であった怪我人を介抱して、必要な援助を惜しまなかった姿を、イエスは比較して聞かせたのだと思います。

どれほ蔑視していた国民であったにせよ、譬え話の中で隣人となったのはサマリア人であるとしか答えようがありません。

「隣人とは誰のことか」という問いにたいして隣人とは同国人であるとか優しい人であるなどといった人の立場で答えるのではなくて、人と人の関係で決まるものだとイエスは言いたかったのでしょう。それだけではなくて、そのような人間関係は作り出すことができるものだと伝えたかったに違いありません。隣人であるかないかではなくて隣人になるかどうかをイエスは律法学者に問いかけたのです。

 

【ぼくたちは】

隣人であるかないかと問われたら、ほとんどの人は隣人じゃありません。国も違えば考え方も違います。周りにいるのは、とてもじゃないが隣人じゃないと言い切れる人々ばかりです。

 でも、放って置けない現状を見たならば放っておかずに隣人になるしかないじゃありませんか。どんな相手であうとも、君たちも人を大切にして、誰かの隣人になりなさいよ。それが君たちが言っている見えない神に仕えることだと、律法にも書いてあるんじゃないのかいってイエスは律法の専門家に訴えかけたんだと思います。

仕事や旅の予定を変更して、見ず知らずの敵対する民族の人のために自腹を切るなんてことは譬え話の中だけのように感じますけれども、人を助けるとなれば、最後まで面倒るしかない、ということでしょう。こまでできないという人は、中途半端でも部分的にでも連携してでもできることをすればいいと思いますけれども、見えない神に仕える仕事があることを理由にして、苦しんでいる人を見捨てるのは、本末転倒だとイエスは言ったのです。律法にあるように、見えない神に仕えようと思う人は、見える人を大切にすればいいのです。苦しんでいる人を見つけたなら、その人の隣人になって、その隣人を大切にすればいいのです。

 主なる神に仕えなければならないと思っている人は、見えている目の前人を大切にすればいいのです。見える人以外に仕えるべき神などないというのがイエスの教えだと思います。

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