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「マリアも普通の人」20211128

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「マリアも普通の人」20211128

聖書 マルコ福音書 三三十一十五節

 

 人々の前に出てきたイエスは、当時の社会の規範から逸脱していたので、狂っているか大馬鹿者だと思われいましたぼくが重要だと思っている点は世間が狂人だと考えているイエスを伝えるためにマルコが福音書を書いたことです。ぜなら、イエスが伝えた福音をマルコが伝えたからには、マルコ自身も狂っているという扱いを受けることがはっきりしていたからです。それを承知の上でマルコが福音書を書いたことに深い意味があると思います

 イエスが奇人変人扱いされていたなんてぼくから聞いて驚いた方も多いでしょう。ユダヤの社会で気狂い扱いされていた、だなんて、教会中では誰も思っていないはずです。けれども、ぼくの説が事実だと思います。

 イエスは、自分がこれこそ真実だと確信した福音を、自分で信じていただけでなく、それが当時の常識に真っ向から立ち向かう内容であったことを知っていたにもかかわらず、一般大衆に向けて宣伝し出したんですから、イエスは余程のうつけ者だと思われたはずです。

 その証拠をマルコ福音書の中に見ましょう。

 

【身内の反応】

 イエスの身内の者たちは「は気が狂っている」と聞かされて「イエスを取り押さえに来た」(三章二十一節)とまで書かれています。ということは、イエスに対する世間の悪評をイエスの身内も信じたということで

 多くの人がイエスの下に集まっている所に、イエスの母と兄弟たちが来て、イエスを呼び出すように頼んだのだそうです。しかしイエスはその呼び出しに応じないで、「わたしの母、兄弟って誰のことよ?」と言ったかと思うと、周りの人々を指して「ここにいるのがわたしの兄弟、わたしの母だよ」(マルコ三章三十一節〜三十四節)と言ったのだそうです。

 これを初めて読んだ時に、イエスって身内対してひどく冷たいだなあ、感じました。とにかく、身内もイエスを理解していなかったということだけは確かです。その他の人々はどうだったのでしょうか。

 

【宗教指導者たちの反応】

 エルサレムから来ていた律法学者は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれている」(マルコ三章二十二節)いうレッテルを貼りました。当時の専門家のごく自然な反応です。

 

【村人たちの反応】

 イエスの家族をよく知っている故郷ナザレ村の人々は、「マリアの息子が何様のつもりなんだ」(マルコ六章一節〜三節)言ってイエスを馬鹿にしました

 これらの記事を素直に読めば、イエスは気が狂っていると思われていた証拠だと判っていただけたでしょう。

 

【マリアについて】

 さて、降誕祭(こうたんさい・クリスマス)の準備をする期間として、降誕祭の四週間前の今日から待降節(たいこうせつ・アドベント)を始めた教会が多いはずです。そこで、イエスの母マリアについて、ちょっと詳しく考察しておきたいと考えました。

 ルカ福音書には、イエスが誕生する前に神秘的な出来事がマリアにあった、と伝えています。ちなみに、マルコは、ヨハネからバプテスマを受けた時点より前のことなどに無関心です。

 ルカによる福音書の著者ルカは、天使の突然のお告げを素直に受け取ったマリアを偉大な女性として描いております。このルカの記事の故に、イエスの母マリアを偉大な人物だと考えるようになったクリスチャン多いと思います。これに対してマルコはマリアをそこまで特別視しておりません。むしろ、先に申し上げましたように、マリアイエスの兄弟姉妹たちと一緒にイエスを取り押さえようとしていたのです。さらに言えば、マリアはナザレの村人やエルサレムから来た律法学者たちと同様にイエスは気が狂れてしまったかのように対処した人です。ここから判ることは、マリアイエスとイエスが伝えようとしていた内容を、少なくともこの時点では理解していなかったということです。

 天使が突然マリアに現れて、「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる」とルカが福音書に描いたようなことは事実ではないと考えるのが当然です。いわゆるルカの創作物語でしょう。

 なぜならば、もしもこんな奇跡があったならば、イエス狂っている、などとマリアが考えるはずないからです。これらのことはイエスの母マリアもイエスの福音を理解していなかったということです。

 すなわち、イエスが自分の考えを福音として伝えたことは、誰にも理解されずイエスは気が狂っているか悪霊憑(あくれいつき)だ、と誰からも、母からも判断されたという証拠です。

 

【イエスを受け入れた人々】

 もちろんイエスの言動を受け入れた人々はいます。その人々というのは、イエスと同様に気が狂っているか大馬鹿者か病人か障害者か律法違反者か犯罪者のように扱われていた人々です。すなわち、社会を運営している人々から邪魔者扱いされていた人たちだったはずです。

 当時その地方で宗教的な生活を営んでい一般的な庶民にさえ受け入れられていなかったというのが事実だったろう、とぼくには思えます。

 

【マルコも余され者】

 常識的に考えると、イエスに対するこのような社会の扱いを、後の教会は知られたくなかったはずです。そうであるにもかかわらず、マルコは、これらの事実を記録に残してみんなに知らせたのです。記録したからには、マルコはこれらの事実を読者に知ってもらいたかったのです。なぜそんなことをしたのか。その理由を、深く考えてみる必要がありそうです。

 律法主義社会に住む人々に、なんと思われようが、イエスは、自分も愛されているし、他のどんな状況の人もそのままで愛されている事を伝えずにはおれなかったのです。なぜならば、そうでなければ誰も救われないことを悟っておられたからです。

 信じれば救われる、と教会は平気でいいますけれども、そう言っている本人が救われていないように思います。マルコもイエスと同様に、自分の力で自分を救えない人だったのでしょう。だからイエスが伝えた福音を理解したのだと思います。マルコは、当時の教会や弟子たちから余されたであったから、イエスの福音の大切さを体感して、福音書をまとめたのだと思います。

 

【ぼくたちは】

 イエスが目指した本当の救いに到達するために、狂ったように福音を語ったイエスを、そしてその実の姿を伝えたマルコを、ぼくは大切にして伝えていきます。母でさえ理解していなかったイエスを、弟子たちを飛び越えて、数十年後のマルコが理解した事実が大切だと思うからです。マルコ福音書の編纂を支えた人々、すなわち社会から弾き出されていた人々実際にうことができた。これがイエスの福音の力です。

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