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「だれも罪人じゃない」20221127

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「だれも罪人じゃない」20221127

聖書 マルコ福音書 十三

 

 今日は十一月最後の日曜日です。十二月の待降(アドベント)る前、先週予告しておきましたように、しっかりとイエスがお伝えになった福音を説教することにいたします。

 

【レビの家の食卓で】

 今日んだ箇所には「レビを弟子にする」という小見出しが付けられております。収税所を通りがかったイエスは、そこに居たレビに「わたしに従いなさい」とおっしゃった、と書かれておりますけれども弟子になりなさいなどとおっしゃ訳ではありませんレビを弟子にしたというのは思い込みで。「ついておいで」と誘った程度にぼくは捉えております

 ついておいで、と言ったはずのイエスが、なぜかレビの家について行って食事の席に招かれているのですから、話はまったく逆です。

 しかも、徴税人たちと食事を共にしているイエスを律法学者が批判したというのです。律法学者はどこにいてイエスの行動を批判したんでしょう。律法学者が徴税人の食卓に同席していたのならイエスの行動を批判できなかったはずです。さらに、そんな律法学者のつぶやきに応えて、イエス自分の目的を伝えたという話の展開も異様ですいずれにせよ「レビを弟子にする」という小見出しは内容に相応しくありません。

 

イエスの言葉?

 この物語の中から、イエスが語った大切な言葉を抜き出すとすれば、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という部分でしょう。しかし、これがイエの言葉のままであるの疑問です。

 この言葉は、非常に過激で衝撃的(しょうげきてき)な内容です。常識的に素晴らしいと評価されている人を招くならば理解できます。ところが罪人を招くため」聞かされますと、常識は理解できません。当時の住民にとっても聞きなれない非常識な表現だったでしょう

 マルコはイエスのこんな非常識さを伝えたかったのでしょうか。まさかそうではないでしょう。むしろマルコは自分が感動したイエスの生き様を伝えたくて、福音書を書いたはずです。そうだとすればイエスが非常識な言葉を語ったことなどマルコは書き残したくなかったはずです。そうであるにもかかわらず、非常識なイエスの表現を書き残したからには、ここにイエスが伝えた福音の真髄が示されていることをマルコが深く理解していたこと確かです。

 イエスが非常識であったと思われないために、文章を加工したいと思うのが人の常ですが、多くの人が誤解するかもしれないというリスクを冒してでも、残されたイエスの言葉をマルコはそのまま伝えたのだと思います。そして写本家も当然、そのまま書き写したのでしょう。非常識で、一般人るはずのない言葉が残されているからこそ、「罪人を招くために来た」という言葉は、本当にイエスが語った言葉である可能性が高いと評価することできす。

 

【ルカは加筆した】

 ちなみに、このマルコ福音書に対して、ルカ福音書の著者は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人をまねいて悔い改めさせるためである(ルカ五章三十二節)と書きました。ルカは、イエスが罪人を招くために来たというだけでは言葉不足だと考えたのでしょう。常識的な考えを持つ多くの人が理解できるようにとルカは考慮したんでしょう。ルカは、マルコが伝えた言葉に「悔い改めさせるため」という言葉加筆したのです。すれば、イエスが罪人を招いたのは罪人を悔い改めさせるという目的のためであったということになり、イエスが非常識なことを言ったのではないということにできます。このほうがイエスの言葉を伝える教会にはふさわしいと思ったのでしょう。

 この加筆によって確かに、イエス非常識な方い、ルカは伝えることができたかもしれません。しかし、マルコがどうしても伝えたかったイエスの主張(イエスの福音の言葉)を、ルカはこの加筆によって骨抜きにしたのです。

 マルコが伝えたイエスの考え方(イエスの福音)を、ルカは受け入れていなかったか、あるいは、理解できていなかったのかのどちらかでしょういずれにせよ、イエスの考えを伝えたマルコの福音(情報)をルカが否定したのは確かです。

 マルコを否定した理由は、「罪人は悔い改めるべき存在である」というユダヤ教の思考回路からルカが抜け出せていなかったことを示しています。ルカは、ユダヤ教の仕組み(システム)にどっぷり浸かっていから、ユダヤ教の罪人理解をそのまま受け入れていたのだと思います。このように、マルコとルカは、それぞれ全く異なった基盤の上に立っていことは明白です。にもかかわらず、マルコとルカが同じ内容伝えていのだとキリスト教会は教えてきたのですから、嘘を言っていたか、贔屓目(ひいきめ)にても間違っていたと言わざるを得ません。

 

罪人という概念を認めていない

 さて前回は病人は罪人である」とう当時の一般的な考え方、イエスが強烈に批判した物語を紹介しました。今回は、ユダヤ教によって罪人と認定されていた職業の人々イエスは罪人だと判断していなかったことを紹介します。

 後に弟子称されるようになったイエスが選んだ仲間たちの職業がさまざまであることから、イエスは人を職業によって差別などしていなかったことは明らかです。

 ですから罪人を招くためにこの世に来たなどという意識イエスは持っていなかったはずです。「イエスは罪人を招くために来た」という表現はマルコ福音書に書かれている言葉でありますけれども、キリスト教会が発展した中で作られた表現だと思います。

 実際に、この話の展開を追ってみると、エスが罪人を招くために来た、と表現されておりますけれども、事実は逆でレビが自分の家にイエスを招いですイエスは招かれた客です。客のイエスが「ぼくは罪人を招くために来た」などと言ったとすれば、この場の雰囲気はぶち壊しです。ですから、そんなことをイエスが言えるはずありません

 宗教の指導者たちが、病人や嫌われた職業に就いている人々を罪人だと認定していのは確かです。しかし、レビやレビの友人たちを罪人だとイエスが認識していたはずありませんから、罪人を招くという意識をイエスは持っていなかったはずです。

 

【ぼくたちは】

 絶対的な罪人などいません。罪人とは宗教指導者たちが罪人だと決めつけた人のことです。しかしイエスは、宗教家による罪人認定など、認めていません。イエスは、罪人と呼ばれていた人々と招き招かれる関係、すなわち、そのままで受け入れ合う関係を作りました。そのためにわたしは来たのだ、とイエスはおっしゃったはずです。の物語に紹介されているイエスは招かれ招く行動によって罪人を作ってきたシステムを拒否していることをお示しになったのです。「罪人」は宗教指導者たちが作って庶民に押し付けた概念です。イエスはそんなものを認めていません。ですから、イエスはぼくたちをけっして罪人扱いなさいません。

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